文字も記録も残さなかった祖先(えみし)
の生き方考え方、宗教を知るには、どのよう
な方法があるのか、手立てとして古代から今
に残る自然の岩を訪ねる事にした。
古くから岩には神が降り宿ると信じられて
きた。そして男岩と女岩を一対の神体として
祭る習慣は古くからあった。それらに巨岩を
用いるのは世界的な現象で、大抵は未使用の
石岩が使われる。そしてその岩は容易に動か
す事なく常にそこにあった。そして形態も万
人が納得する一対のものでなければならなか
った。大自然ゆえその岩は尊ばれた。
男岩と女岩
男岩と女岩を祭る例として、えみし学会の
ゼミナールのフィールドワークを顧みても1
998年、第9回二戸市ゼミ、鳥越山の男神
岩・女神岩。2005年、第16回の衣川村
(現奥州市)ゼミ、磐神社、女石神社の記憶
も新しいことと思う。その他、岩手県には南
から千厩町(現一関市)の夫婦岩や、西根町
(現八幡平市)岩手森にある夫婦岩、そして
盛岡市沢田の智和伎神社内にも、明らかに男
岩・女岩が存在する。
(沢田智和伎神社−金精大明神)
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(衣川磐神社)
金精を祭る風習は日本の中部地方から、関
東・東北地方にかけ顕著に聞かれる名称だが、
金精のみ祭るのと、女性も共に神とするのは、
似て比なるものだ。
今は岩手公園―盛岡城址となっている場所
は、昔「こずかた城」と言っていた。
そこに男岩・女岩があることを検証してみた
い。
烏帽子岩と石割桜
さて、盛岡城は江戸時代以前には「こずか
た」と呼ばれていた。この古名は、『不来方
(こずかた)のお城の草にねころびて空にす
はれし十五の心』と石川啄木の歌にも有るよ
うに今もなお、盛岡の土地のひとに親しまれ
ている。
文書の上では戦国時代に始めて現れる。
「前九年の役ののち、清原武則の舅、迂志方
太郎頼貞が、この地に城を築いたと伝える」
(『角川日本地名大百科辞典』)。
清原武則はえみしの俘囚長として記録にの
こる。その妻の父が「こしかた」を名乗った
のは興味ぶかいことである。すでに「こずか
た」と言われていた場所の神域に男岩、女岩
があった。どこから運んで来たものでもない、
そこに存在し其れゆえ、この地に城を築いた。
その岩は現在では烏帽子、またの名を宝大石、
兜岩と呼ばれる。
桜山神社(盛岡城祉にある神殿、拝殿)発
行のパンフレット『岩手公園物語』によれば、
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