鳥海山 大物忌神・月山 月山神 の神名から見た蝦夷

田牧久穂



第三部 大物忌神(鳥海山)・月山神(月山)の神名と出羽住民

T  仏教の出羽国への浸潤

 奈良時代に入る直前ころ、都の近辺には、山林修行(さんりんしゆぎょう)の徒(前期修験・山伏)がふえ続けていました。律令制度が整い、支配者から押しつけられる税の負担に耐えきれなくなった民衆が、仏道修行に名を借り、且つ行基の徳を慕って、山に逃げ込んだのです。この動きに、支配層は神経をピリピリさせていました。

 加重負担に耐え切れなくなった民衆は、本貫(ほんがん)(住所登録地・本籍)から逃散(ちょうさん)し、浮浪・浮宕(ウカレヒト)の名で全国に散って行きます。

 *逃散・・・戸や村をあげての集団逃亡。その人々が浮浪・浮宕。

 逃亡した先でつかまり、本貫へ引き戻されまいとすれば、彼等は、行った先々ので山に逃げ込むほかはありませんでした。山に逃げ込んだ彼等は何になるでしょうか。

 役小角(えんのおづの)の伝承から推して、山林修行者は関東地域にまで広がっていたことは確実です。これが、陸奥・出羽にまで波及するとするならば、そこには仏教と山岳神道の混合した下地が準備されていなければなりません。

その様子を見ます。


1.官製仏教の出羽国への浸潤

 『日本書紀』、持統紀に、次のような記述があります。


                             むだいし                       うきたま
 三年(689)春正月丙辰(三日)。務大肆(従七位下相当)陸奥国の優蓍曇郡の

き こう        シ リ コ  こ   マロ カナオリ  ひげかみ そ    ほうし  な     もう
城養の蝦夷 脂利古が男、麻呂と鏃折と、饗髪を剔りて沙門と為らむと請す。

みことのり のたま         ら わか    みやび   ものほ   すくな  つい ここ いた
  詔して曰わく、「麻呂等、少くとも閑雅ありて欲ること寡し。遂に此に至りて、

くさびらくら       たも    もお         いえで おこない
 蔬 食いて戒を持つ。所請すままに、出家し修道すべし」とのたもう。



 *古代には、出家(しゅっけ)となるためには官の許可が必要でした。人民は、課税の対象でしたから、無闇と出家されると財政に支障を来すからです。官許のないまま出家した者を私度僧(しどそう)といい、迫害されます。七世紀末、山林修行に名を借りた私度僧(後の山伏)が発生しつつありました。

 有名な行基(ぎょうき)は、そうした人々の指導者でした。

*表記は違いますが、「優耆曇」は前出の置賜郡。この頃は、陸奥国に属していたようです。


                     こ      こし         どうしん     ひとはしら かんじょうのはた
 同年同月壬戌(九日)。是の日、越の蝦夷沙門道信に、仏像一躯、潅頂  幡・

 かね はち       ごしき しみのきぬ             ぬの       すき       くら
 鍾 ・鉢各一口、五色の 綵 各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍―具を賜う。


 *この「越」が、越後国だとすると、当時は、北陸の住民も「蝦夷」とされていたことになります。

 *この「越」が、後に出羽郡とされる地域ならば、日本海側山形にも仏教が浸潤していたことになります。


                                     じとく   こう   あかがね やくし     かんぜおんぼさつ
 同年秋七月壬子の朔に、陸奥の蝦夷沙門自得が。請せる金銅の薬師仏像・観世音菩薩像、

         かね しゃら ほうちょう こうろ  はた
 各一躯、鍾・裟羅・宝帳・香炉・幡等を付け賜う。



*自得は、麻呂か鎌折の法名でしょうか。分かりません。

2.役小角(役行者)から考えられること。

『続日本紀』の記述。


 もんむ                               えのきみおづの いづのしま
 文武天皇三年(699)五月丁丑(廿四日)。役君 小角を伊豆嶋(伊豆半島)

                 かつらぎ         じゅじゅつ     ほ       げ         からくにのむらじひろたり
 に流す。初め小角 葛木山に住して、咒術を以て称めらる。外従五位下 韓 国 適 広 足

師とす。

のち そ   のう そこな    ざん     ようわく        ゆえ おんしょ
後に其の能を害いて、讒するに妖惑を以てす。故に適所に配せらる。

 よ  あいつた  いわ         よ        えきし         く  たきぎ と
 世 相伝えて云く、「小角 能く鬼神を役使して、水を汲み薪を採らしむ。

  も  めい          すなわ じゅ     しば
 若し命を用いずんば、即ち咒を以て縛る」と。



 *役小角に関する公的な記録は、これ一つだけです。あたかも、羽黒山の開基者とされる蜂子皇子の記録が、


  すしゅん                    おおとものぬかで むすめ  こてこ       みめ
 「崇峻紀」元年(588)の春三月、大伴糠手連が女 小平手を立てて妃とす。

これ はちこ     にしきて
是 蜂子皇子と錦手皇女とを生めり。」
しかないのに似ています。

 *「世 相伝えて」は、「話が伝わり広がって、尾鰭がついて」の意味。


                       おんる
 『日本霊異記』の記述・・・遠流後の小角

すなわ いづ  しま                                          ふ    ごと
 即ち伊図の嶋に流しき。時に身、海上に浮かびて走ること、陸を履むが如し。

 み ばんじょう うずくま           おおとり         おうめい したが      い  おこな
 體 萬丈に 踞り、飛ぶことはしる鳳の如く、昼は皇命に随いて嶋に居て行い、夜は

 するが   ふじ  みね  ゆ   しゅ
 駿河の富岻の嶺に往きて修す、云々。


*常識で考えても、こんなことの出来るはずがありません。既に富士の山で修行する修験(山伏)の、奇体な姿格好と行動を見た人々が、「さては、あれこそが噂に聞いた、都からの流され人の小角よ」と話し合ったのを記録したに過ぎないでしょう。

 そうすると、富士山や箱根山に修験(山伏)が存在するころ、東北にはまだ存在しなかったと言えるでしょうか。


3.出羽民衆の修験(山伏)を生み出す契機

( 注 ↓ は「第一部」の後半)
 P.5で、律令政府の国家事業としての最初の出羽大侵攻で、住民は、東山道と北陸道からの挟撃、海と陸からの挟撃、二重の挟み撃ち攻撃を受けておりました。彼等は、どこへ逃げ込んだでしょう。

                   ひのと   かむろ
 *山形県の地勢。北に鳥海山、丁山地、神室山地、栗駒山。
                  東に奥羽山脈。
                  南に朝日山地。
                  中央に葉山・月山、そして羽黒山・・・修験(山伏)のメッカ

[古代人の山に対する意識]

 ・山そのものを神として仰ぎ見る・・・神奈備(かんなび)山、神そのものとしての神体山(しんたいざん)
             (山人(やまびと)は、神霊の気を受けて、一種の神道を発生させます)

 ・祖霊の鎮もる山。人間の魂は、死して山に登り、一定期間後、浄(きよ)められて祖霊(それい)となります。(ここで民俗と仏教が習合させられます。例えば、お盆や正月の行事など)

 そして、春には山から里に降りてきて田神(たのかみ)となり、子孫の田の豊熟を見守り、秋には収穫を見届けて山へ帰り、山神(やまのかみ)となります。

 ・水、山の幸を恵み賜る所。(山を離れた民俗行事は無いと言ってよいほどです)

 かくして、出羽に修験(山伏)を発生させる条件はそろいます。加えるに、寺院仏教は他国に比して隆盛を見ます。


じょうぎゃくじ        じょうぎゃくじ   こくぶじ   こくぶにじ
[定額寺の指定] *定額寺・・・国分寺、国分尼寺に次ぐ準官寺。認可には、相当の財力と官位が必要です。

  もんとく     さいこう                                                     あず
 ・文徳天皇・斉衡三年(856)三月壬子(九日)。出羽国の法隆寺を以て、定額寺に預く。

  せいわ    じょうがん                       みことのり
 ・清和天皇・貞観元年(859)三月廿六日壬午。詔して、出羽国秋田郡の俘囚

みちのきみウヤコ       ウナキ       これ  ど       これ                 くだん
 道公 宇夜古・道公宇奈岐をして、之を度せしむ。是より先、国司上奏して「件の

         わか   やしん  す       いるい      は   ぶつり   きえ    じかい
 俘囚等、少くして野心を棄て、深く異類たるを愧ず。仏理に帰依して持戒を願う」と。

より     これ
仍て特に之を許す。



*表現上の真実は別として、秋田県域からの最初の官許の僧の出現。


                                                         これ
 ・同    貞観七年(865)五月八日戊子。出羽国の観音寺を以て、之を定額に預く。

                                             ゆが
 ・同    貞観八年(866)九月八日庚戌。出羽国の瑜伽寺を以て、定額に預く。

 ・同    貞観九年(867)十月十三日戊寅。出羽国の長安寺、之を定額に預く。

                                                  リョウザン・リョウゼン
 ・              十二月廿九日甲午。出羽国最上郡の霊山寺、之を定額寺に預く。

                                               やまもと  あんりゅう
 ・同    貞観十二年(870)十二月八日乙酉。出羽国山本郡の安隆寺、之を定額に預く。



 九世紀後半、諸国で定額寺に認可された寺院は、出羽国が飛び抜けて多いのは、認可されるに足る寺院を建造し得る豪族がおつたこと、配下の民衆は仏教の教義に触れる機会の多かったこと。それに出羽三山との関連があったはずと思います。

 定額寺は、例外なく天台・真言、密教系の寺院らしく思われます。修験(山伏)は、密教系の半僧侶です。

U  恐怖の対象としての蝦夷

   うぜい    がんぎょう                     かずさのすけ               まさのり
 ・陽成天皇・元慶七年(883)二月九日丙午。上総介 従五位下藤原朝臣正範

 ひえき   そうごん   いちはら              はんらん                     おお
 飛駅して奏言す、「市原郡の俘囚三十余人叛乱して、官の物を盗み取り、数くの

      さつりゃく    これ  よ                         それ         し
 人民を殺略せり。是に由りて諸郡の人兵千人を発して、其を追い討た令む。

 しか             ろしゃ                      しょうりょう                あら
 而して俘囚 民の盧舎を焼き、山中に逃げ入りぬ。商量するに、数千の兵に非

 ざれば征伐するを得ざらん」と。


  もんとく     かしょう                                  もう   もうさ
 ・文徳天皇・嘉祥三年(850)六月甲戌(廿八日)。出羽国奏して言く、

 さかい いらく      ややと      ふうじん  な                              しるし
 「境 夷落に接し、動もすれば風塵を為す。嫌疑有るに至りては、必ず占いの験に資る。

  こ     ししよう      はぶ おんみょうじ                   これ
 請わくは史生一員を省き、陰陽師一員を置かんことを」と。之を許す。

      さいこう                                もう   いわ       みの
 ・同 斉衡元年(854)四月壬午(廿八日)。陸奥国奏して曰く、「去年登らず。

                        すで    とんじゅ とぼ
 百姓困窮し、兵士逃亡して、已にして屯戌乏し。

     ころう たぐい                       きざ             あ   こ
 今 虎狼の類、争うて強盗を事とし、逆乱の萌し、近く目前に在り。請うらくは

えんぺい                 ふぐ
 援兵二千人を発し、以て不虞に備えんことを」と。勅して一千人を発するを許す。

                                     こく              ふい  じんごう
 同年五月戊戌(十五日)。陸奥国に勅して、穀一万石を以て、俘夷に賑給す。



*「困窮」している「百姓」にではなく、「虎狼の類」とされる「俘夷(俘囚・夷俘)」に賑給しています。それほど下手に出なければならなかったのです。


 ・同 斉衡二年(8 5 5)年春正月丙申(十五日)。陸奥国奏して曰く、「奥地の俘囚等、

ひし やいば                     すべから
彼此 刃を接し、同種を殺傷せり。事 須く警備し、以て非常を防ぐべし。

より  か
仍て且つは援兵二千人を差し発せんことを」と。之を許す。

                                                      もうさ
                  同月戊申(廿七日)。陸奥国飛駅して奏く、

              ま            ねが
「援兵二千人を加し発せんことを請う」と。

     のたまわ  そ  へんよう  き    あんき          かす      つつし きざし おもんば
 勅して曰く、「夫れ辺要の奇は、安危繋かるの攸。微かなるを慎み 萌を 慮かる。

ことわり       よろ  しか        ただ           のぞ       こうか  きそ
 理の固きこと宜しく然あるべし。但し時は農要に臨み、人は耕稼を競う。

しか       ししゅう                 とんじゅ              かんえき なげ  いだ
而し て多く士衆を動かし、遠く行きて屯戌すらば、恐るらくは患役の嘆きを懐き、

つい                   とぼ
終 には加えて帰るの志に乏しまん。

 およ               いま             たっと       いやし  そ     ふる
 凡そ兵を用うるの道、未だ必ずしも多きを貴しとせず。苟くも其の力を奮わば、

                  よろ                       えら              いざな
一以て千に当たらん。宜しく便りに近城の兵一千人を簡び抜き、其の心を和誘い、

               よ しょうよう
其の武を精練し、能く衝要を守り、以て危機に備うべし。

    そうじょう よし         きこん       ゆえ じんごう     もみ     ごく  たも
 又 騒擾の由を知るに、飢困に発す。故に賑給の料の籾 一万斛を賜う。

  すべから たみとふ        つと  ゆうじゅつ                       そ  きゅうくん
事 須く 民俘を論ぜず、務めて優恤を加え、開くに恩恵を以てし、其の窮窘を慰めよ。



*仲間同士のいざこざに端を発した程度のものだったろうに、こうした騒ぎと手当てをしなければならないのでした。


  せいわ     じょうがん                          これ            もうさ
 ・清和天皇 貞観十五年(873)十二月七日戊戌。是より先、陸奥国言く、

 ふい         ややと      はんれい         りみんきょうく  ころう   ごと
「俘夷境に満ち、動もすれば叛戻を事とする。吏民恐懼して虎狼を見るが如くす。

   ねが                 じゅん                 まつ
望み請うらくは武蔵国の例に准じ、五大菩薩像を造り奉り、国分寺に安置し、

ばんい      しゅく         ふい  やす         ここ いた   これ
蛮夷の野心を粛し、吏民の怖意を安んぜん」と。是に至りて之を許す。



*仏だのみの挙に出ました。


                                                  ふんやの   か ら ま ろ
 ・同 貞観十七年(875)五月十日辛卯。下従五位下下総守文室朝臣甘楽麻呂

ひえき   そうごん  ふしゅうはんらん                           さつりゃく
飛駅して奏言す、「俘囚叛乱し、火を放ちて官寺を焼き、良民を殺略せり」と。

 ちょくふ のたまわ        み    ふりょ えんらん        すべから
 勅符して曰く、「春秋を省て、俘虜の怨乱を知りんぬ。須く官兵を発し、以て

ほうえい あつ
鋒鋭を遏すべし。

                                   おのお
 又、武蔵・上総・常陸・下野等の国をして、各の兵三百人を発し、以て援助を

 な  し
為さ令むべし。



*こうした蝦夷に対する恐怖心の積み重ねの上に起こったのが、「元慶の乱」なのでした。

  律令政府の国家を挙げての出羽侵略の開始から、実に150年余。討てども討てども抵抗を止めない出羽民衆。

 ここで、大物忌神(鳥海山)と月山神(月山)の神名の意味が生きてきます。
 8世紀初頭、元明天皇の時代から始まった「征夷」の対象となった住民は、地形的にも鳥海山・月山の地域に逃げ込むほかありませんでした。これが、東北での修験発生の契機になると私は見ます。鳥海山と月山の中間地点にあるのが、修験のメッカとされる羽黒山です。そして、月山の尾根続きになった所に、ここ湯殿山はあります。


V  鳥海山と月山の本地 (資料を使用します)

 山林修行者が、一種独特の山岳神道を作り出し、仏教浸潤のあおりで、これまた一種独特の山岳仏教を生み出し、両者を混合させるころ、里に住む東北人、中でも出羽の住民や全国にばらまかれた東北人が恐怖の対象となっていたとすれば、支配者側は、彼等の動きを事前に知る必要に迫られます。

 それの予知に役立ったものこそ、大物忌神(鳥海山)であり、月山(月山)であったと見ます。大物忌神は、しばしば噴火を繰り返す山でありました。その噴火が、いわゆる蝦夷の蠢きの予兆とされたようです。
   資料 P.9下から10行目下線部分

 国府の官人たちは、山岳修行者が連絡・交信に使う篝火を、大物忌神の小噴火と見間違えることもなかったとは言い切れません。

  鳥海山(大物忌神)・月山の謎
      ・その命名の由来
      ・従五位下の神階を得た時期
      ・鳥海山の改名の時期
 イ.大物忌神にせよ、月山にせよ、これらは、国府官人の報告をもとにした中央政府の命名であること、まちがいありません。地域人には地域人なりの呼び名があったと思われますが、それは記録されなかっただけの話です。従って、それは分かりません。

  鳥海山(大物忌神)の尊崇されたわけ。
      資料 P.9 下線部分
            P. 10下線部分(二か所)
 鳥海山(大物忌神)に対する地域人の呼び名は記録されぬまま、地域の住民は、風葬(鳥葬)の山として活用していたらしくも見えます。
   資料 P.9 下から7行目

 それは、より早く祖霊となさしめる手段だったかも知れません。そして、山岳修行者にして見れば、より仏法を深化拡大させる契機になってあったかも。


大物忌・月山の神名の真の意味


@地名、山名の意味は、漢字に捕らわれて語源を解釈してはならないこと。

 大陸〜半島から漢字が伝来するまで、列島人は、音(おん)のみの地名で間に合う生活をしていました。

[地名改変の歴史]

  漢字が伝来すると、支配者は、最初「万葉仮名」で地名を表記しました。つまり、一音に漢字一字を当てるのです。

      かれ  そ                みたび なげ      ア ヅ マ ハ ヤ    の
 [例] 故、其の坂に登り立ちて、三度嘆かして「阿豆麻波夜」と詔云りたまひき。

かれ そ      なづ    ア ヅ マ   い
故、其の国を号けて「阿豆麻」と謂ふ。

 ところが、征夷事業を開始した元明天皇の和銅六年(7 1 3年)に、とんでもない命令が出されます。

                        せい       きない ななどう    こおり さと      よ
 和銅六年五月甲子(二日)。制すらく、「畿内と七道諸国の郡・郷の名は好き字を着けよ」

がそれ。「好き字」というのは、良い印象を与える漢字の二文字で表記せよということです。これが、後に太政官符や『延喜式』で繰り返し命令され、地名を漢字二字で表記する伝統が日本に定着します。

 おかげで、日本の地名の語源はすっかり分からなくなってしまいました。
 何気なく使ってはいるものの、何でこう読むのと首をかしげるものもあります。

       飛鳥・大和・陸奥・日下・etc  。
       日本の国名は、次のように変遷します。
        わ    やまと     やまと     やまと
       倭 → 大倭 → 大養徳 → 大和
                                      ヤマト
                    → 日本
 [地名の由来の捏造の例二三]これには、近世修験の悪戯が絡んでいます。
岩手・若木山・主寝坂

A大物忌・月山を和語(古代日本語)から解く。

特に、[月山]の意味するところ。
 各地の月山の訓み

  ○文武天皇・大宝元年(701年)夏四月丙午(三日)勅して、

 やましろ かどの    ツクヨミノカミ かにわい  このしま   は つ か し     かむいね       のち
 山背国葛野郡の 月神 ・ 樺井神・木嶋神・波都賀志神等の神稲、今より以後、

なかとみ
中臣氏に給う。
                               (『続紀』)

  「月」が一字でツクヨミと訓まれています。これが『延喜式(927年完成)』では、「月読神社(名神大・名神大・月次・新嘗)」となっており、月読はツクヨミの訓み。
  「月読」の「読」は、月齢を数えること。月の満ち欠けで日を数えることを意味します。

          わたらい                                      あらみたまのみこと
  ○伊勢国度会郡五十八座(大十四座、小四四座)月読宮二座(荒御魂命一座

とも だい つきなみ         つくよみ
並に大、月次・新書)   月夜見神社。

    いきのしま                                    みょうじん
  ○壱岐嶋壱岐郡十二座(大四座、小八座)月読神社(名神大)


 後の二例も、元来の訓みは「月」一宇でツクヨミであった可能性が大です。
 それが、「好字二字」に該当しないため月読にしたのだと思われます。
 ところが、山形県の月山だけは、一貫してツキヤマの訓みなのです。したがって、「月」には別の意味を付与してあったと断定します。

 「大物忌」とは、これまたおどろおどろしい不気味な名前です。
 「大」は、尊称・美称でしょう。菅原道真の怨霊が大天魔天神から大天満天神に変わっても「大」の字がつくのと同じです。

 そうすると、「大物忌」と「月」は、征夷の歴史との関連で解釈しないわけにいかなくなります。

 東北日本海側(山形・秋田両県)に対する律令国家の総力を挙げた大侵略の開始が、出羽建郡を契機とした、元明天皇の和銅二年(709年)からでした。それが、出羽住民を討てども討てども抵抗は止みませんでした。少なくとも元慶の乱(878年〜)、天慶の乱(939年〜)まで、250年近くつづくのです。

 そうすると、律令政府にとっては、
 ツキヤマのツキは、住民の怨念(おんねん)の取り「愚(つ)き」やまぬ神の山。よって住民の怨念の「尽き」てくれることを願っての神の山の意味をこめた・・・と取るのです。
 政府としては、それでも「好字」の範鴫に入れて「月」一字にしたものと思われます。

 大物忌の「物(モノ)」は、「鬼・魔物・怨霊(おんりょう)」を意味します。


              *外から災いを与える霊魂を「もの」と言ひ、鬼は此(これ)である。
                平安時代には鬼のことを「もの」と言うてゐる。
                自分の霊魂は「たま」である。
                                      (折口信夫『古代研究』)

              *ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、
                幽霊だの鬼だのとされている。万葉集には、鬼の字を、
                ものといふ語にあてゝ居る
                                             (『同上』)
                               
              *物・・・ものがつく。もののけ。物狂いの意。
            ものが憑くは、物恠が憑く、即ち崇られるの意味。
 住民の怨霊のこもる山であるが故に「忌む」べき山として捕らえられたのに相違ありません。怨霊を鎮めるために、律令政府は、事あるたびに奉祭しなければならなかったのです。

B大物忌神・月山の従五位下授与はいつか。

 人臣であれ、神であれ、国史に初めて記録されるのは、原則として、従五位下を授与されたときです。

P.4のCを参照して下さい。既に、従五位上として登場します。

 ところが、大物忌神には、その時の記録はありません。月山神も同じです。
 六国史の最後、『日本三代実録』では、「上古の時自り」と漠然とした表現をしています。
   P. 1 0 下から9行目。
 この上古の時に大物忌神は従五位下を授与されたにちがいありません。それでは、藤原保則が「上古の時」というとき、その「上古」とは、いつのことなのでしょうか。

  『新抄格勅符』(しんしょうきやくちょくふ)という文書には、光仁天皇の宝亀四年(773年)吹浦の月山神に、「神封二戸」を与えると記されています。吹浦の月山神ですから、=大物忌神ととってもいいわけです。が、何故宝亀四年なのか、征夷との関係では理解しがたいものがあります。

 要するに、大物忌神(鳥海山)・月山という古代名は、出羽住民の怨念のこもった山として捕らえられていたこと、間違いありません。
 住民は、別の名前で呼んでいたのでしょうが、住民は文字を用いなかったし、官人はそれを記録しなかったまでのことです。
 怨念のこもった山の中、麓に住む住民は、その怨念を消す事なく抵抗をつづけました。そして、山に住む特性を生かして情報伝達に駆け回り、戦線を指導していたものと私は取っています。

例1.大物忌み神社の御浜出神事(お火焚神事)から考えられること。
例2.「物忌」に関する伊勢神宮との関連。但し、忌詞(いみことば)は問題外。

 六国史が終焉を迎えた後、大物忌神の名は運命共同体のように、記録から消えます。そして、何時の間にか「鳥海山」と名を変えて登場します。
 名を変えたのはいつか。最も古いものとされるのは、蕨岡大物忌神社の鰐口に彫られた紀年銘とされます。

*鳥海山の名の、ものに見えてふるきは、蕨岡「暦応(りゃくおう)五年(1342)」の金口銘ならん。     *暦応は北朝年号です。

 これ以前の何時かというほかありません。では、鳥海山の意味するものは何か・・・不明です。かくして、古代出羽民衆の信仰のありようの知れないまま、鳥海山は今も立ち続けているわけです。



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