小笠原 矗
◆年を越し新たな年を
02/12/29
◆ひな祭りに平和を祈る
03/03/07
◆辛夷は北さ向いで咲ぐ
03/04/30
年を越し新たな年を
02年12月29日
かつて正月は五穀を護るお年神さんの祭りであった。そして秋の実りの延長線上にあった。豊作は衣食住を安定させ生活にうるおいを与えてくれた。岩手民謡の米節に「米という字を分析すればヨー/八十八たびの手がかかる/お米一つも粗末にならぬ/」とあるように、結い仲間はもとより爺さま婆さま子供らの協同で米が作られてきた。その米俵が積み上げられると子供心にも充実感と来る正月に期待感がふくらんだ。豊作の剰余米は正月の料理や晴れ着やお年玉になった。そして御神酒になった。酒好きの人たちは神様でさえ酒を飲む、人だって飲むのは当たり前ということで江戸時代各地で酒造りが行われた。
11月10日、岩手県立博物館友の会で毛越寺にいった。バスが紫波町をとうるあたりに博物館の大矢さんからお酒の話を聞いた。「侍の俸禄はお米だったので酒造りはそれを差し引いた分があてられた。その頃の杜氏が今に残る出雲杜氏、丹波杜氏、南部杜氏で日本の三大杜氏である。不作、豊作があるので毎年酒をつくる石高がちがった。一年分の食(米)を備蓄できた本百姓が十一月から三月まで出稼ぎ杜氏となって各地にちらばった。春日大社は今でも自前の酒を造っている唯一の神社で古い技法、作法が伝わっている。たしか三月十三日がお酒の祭りの日で「春鹿」が御神酒となる。ここの杜氏は花巻の人で南部杜氏だった。ここの「春鹿」をいつか春日神社で飲みたい」と話されていた。
花巻の北、盛岡よりに志和稲荷神社がある。古くは安倍氏ゆかりの神社で、この地区が南部杜氏発祥の里である。平泉文化の礎をきずいた安倍氏の掟は人の上に人を造らず、人の下に人を造るなく、自在平等に生々を保つとした。そしてまた一汁一菜たりとも私にせざるを大事とせよという。安倍氏も年越しには新酒を神前に供え正月には御神酒を振る舞ったと思う。我が家の年越しは濁り酒に新巻きの刺身、田作り、蕪の千枚漬け、里芋の煮物を遮光器土偶に供える。食は身土不二、一物全体食が大事。米節のつづき「米はおいらの親じゃもの」。
毛越寺は17の坊と100の檀家で維持してきたという。その一つの最初に訪ねた寿徳院には養蚕の家屋があった。ここの若い住職が「延年の舞い」の舞い手である。延年の舞いは右手に鈴を持ちシャグンシャグンと鳴らし、左手には扇子。自分の呼吸で舞うので日頃の鍛錬が欠かせないという。舞いの役割分担を17の坊の男子がそれぞれ引き継いできた。年があらたまった20日の満願の日に延命長寿を願い舞う。毛越寺は平泉の玄関である。
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ひな祭りに平和を祈る
03年3月7日
3月3日、東北地方は快晴にめぐまれた。この日は桃の節句(ひな祭り)。古来、中国ではこの日、川で身を清め不浄を祓う習慣があった。これが平安時代に日本に入り、宮中の庭で曲水の宴を張り祓え行うようになった。上流から流される杯が自分の前を通りすぎないうちに歌を詠じて杯を取り上げ酒を飲み、また、次に杯を流してやる遊び。やがて曲水はすたれたが「上巳の祓」として形代(祓のときに用いた紙の人形)をつくり、それに穢れを移して川や海に流し不浄を祓った。ちなみに岩手県平泉町の毛越寺の庭園では曲水遺構が復元されている。形代は流し雛となり、江戸期になるとひな祭りとして庶民の間に広まった。桃の花を浸した酒、桃の酒を節句に飲むと百病を除くという。やがて女の子のすこやかな成長と幸福を祈るひな祭りとして定着してきた。
子供の頃の桃の節句は旧暦だったと思うが何故かお彼岸に雛人形を飾った。古びた土人形を箱の上にならべた。北国は春は名のみで雨や風に雪がまじり、飾る花などなかったからなのだろうかよく花饅頭をこしらえた。米の粉で饅頭をつくり花の木型に押してから赤や黄色、緑の食紅で色をつけた。これを蒸かすと色鮮やかな春の花が咲いた。好きな女の子の顔に似せた饅頭と自分に似せた饅頭をお雛さんにあげたこともあった。
「怠け者の節句働き」「節句倒し」ということわざがある。節句の日には、世間の人は仕事を休むのに、ふだん怠けている者がことさら忙しく働くようすを笑っていう。このように昔から節句の日には、農作業などの仕事を集落全体で休む習慣があったという。1と6のつく日と五節句、お盆と正月が休み。他に大祭の日もあったと思うが、これを止めさせたのが国。明治9年3月12日、休日が多いということで日曜日を休日とした。ドンタクとはオランダ語で日曜日とか休日、祭日のことをいって半ドンの語源になった。富国強兵政策の明治新政府は子供の成長と幸せをみんなで祝う休日を奪った。
私は3月3日の桃の節句に休暇をとり山形県に出かけた。日本ペンクラブはこの日、山形市民会館で第19回の「平和の日」の集いを開催した。水・いのち・旅・ふるさとをテーマに作家の井上ひさしさん、立松和平さん、歌人の俵万智さんら四組八人によるリレー対談が行われた。東北での開催は91年の仙台市以来2度目で、あの時は湾岸戦争だった。
「いのち」のテーマで小中陽太郎さんがベトナム戦争で米軍のナパーム弾攻撃をうけ渡河する親子の写真を紹介した。カメラマンは三沢市出身の沢田であった。もう1枚は去年4月のベトナム行での写真で19歳の三人の少女が写っている。奇形と障害をもった子たちで60年代の枯れ剤が母胎を侵した結果であるという。84年の5月に開催された「第47回国際ペン東京大会」の平和委員会で3月3日を「平和の日」と設定された年に生まれた子、彼女らになんの罪があるのであろうか。ベトナム戦争以前は殺し合いで終わったが、65年以降は戦争時に生まれていなかった子供たちが白血病やガンで死んでゆく。
米原万里さんが3月5日にも米国はイラクを攻撃するというが湾岸戦争時の42日間に彼らは11万回出撃し8万8千トンもの火薬を使い、15万人から30万人殺した。広島の6倍の火薬、2倍の死者である。その後の経済制裁で150万人が死に、そのうち60万人が5歳以下の子供たち。子供は抵抗力がなく風邪と下痢でかんたんに死ぬ。そして白血病である。去年の11月のA新聞は米国はその後25万回攻撃し劣化ウラン弾を落としていると伝えた。この爆弾は放射能は低いというが広島の放射線量の1万3千倍にたっしているという。劣化ウランは比重が大きく地下深く浸透していると話した。劣化ウラン弾は在日米軍は95年12月から翌年の1月に沖縄県鳥島射爆場で演習で使用。NATOはユーゴスラビア・コソボへ空爆で使用した。
下重暁子さんは旅は帰る所があるからよいのだという。戦争はふるさとの山河を破壊し、帰る所、生活の場を消し、水は放射能で毒になって万物のいのちを断つ。ペンクラブの梅原猛会長は「日本を思い、世界を思い、地球を思い厳しいことをはっきり言うのがペンクラブの使命。これを作品にすること」だと締めくくった。
核兵器や生物兵器の恐ろしさは言うまでもないが現実にはもっとも多くの人を殺傷しているのは、自動小銃、ピストルなどの小型武器である。世界に6億4千万丁出回っているという。国境を越え安価で売買され、年間50万人が殺されている。国連のアナン事務総長は「事実上の大量破壊兵器だ」と指摘。銃の規制は国連の宿願だがアメリカが乗り気でない。市民の武装権を認めるアメリカの銃信仰は根強い。アメリカはテロ退治をいうがテロリストにも流れる小型武器の規制には腰が重い。戦争の一番の被害者は子供たちだ。ひな祭りに世界の子を思う。
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辛夷は北さ向いで咲ぐ
03年4月30日
花ひらけば風雨多くという。春はふつう「おだやかな季節」と思われているが「あれる季節」と呼んだほうがふさわしいかもしれない。春疾風、春荒れ,春寒という季語もある。春は日本上空で寒気団と暖気団がぶつかり合う。そのぶつかり合いの激しさが風を呼び、雨を呼ぶ。
3月下旬から4月初旬はめずらしく好天に恵まれて、10日に近所の農家の屋敷林にあるコブシの花が咲いた。そして16日には盛岡地方裁判所の石割桜が咲きはじめた。やっぱりというか花見どきの19、20日、21日の土日月は雨にたたられた。風の神、雨の神のいたずらだろうが22日の朝は氷点下になりサクラ冷えとなった。しかし、春の雨や風は百穀をうるおし、春雷は眠気をさまし、芽を開かせる。雨が降るたび、南風が吹くたびにふくらんできた木の芽がいっせいに小さな薄い緑色になり始めた。木々が新緑を生むのは平均気温が15度前後になった時である。17日に河原の大きなヤナギが、今は街路樹のユリノキが若葉を風にそよがせている。
浅田次郎の「壬生義士伝」では「盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、北さ向いて咲ぐのす。んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのをまつではねぞ。南部の武士ならば、みごと石ば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも先駆けて、あっぱれな花こば咲かせてみろ」とある。
4月19日、「壬生義士伝」の作者浅田次郎氏を招いて映画の上映会と講演会が盛岡市のじき南隣りの紫波町でひらかれた。テーマは「壬生義士伝余話」。南部藩を脱藩して新選組の隊士として活躍した吉村貫一郎なる人物の悲劇の背景、裏話である。
歴史小説は史実が約二割であとは創作といわれているが、浅田さんは創作は良心や誠実さがなければできないので資料を綿密に調べることから始まり、四季に分けて盛岡に何度も足をはこび取材をしたという。作品は明治維新から半世紀をへた頃に一人の新聞記者が主人公の吉村貫一郎を知る人たちを訪ね聞き書きをするという構成をとっている。そして方言で書かれている。「壬生」は京の町はずれ洛西にあった村の名で、新選組がかつて屯所を置いていたことから新選組の人たちを壬生浪(みぶろ)と呼んだ。もとを糺せば食いつめ浪人の寄せ集めで恐れられてもいたがバカにもされていた。どこの藩でも金がなくなって満足な俸禄は払えなかった。一番割りを食ったのが足軽同心だった。映画の壬生義士伝は食いつめた人たちの悲しみをあまり描ききれていない。
表高20万石の南部藩は文政8年(1825年)の大凶作で15万7千石の大減収を生じてから年々衰えはじめ、天保3年(1832年)の凶作、天保4年の大飢饉、6年から9年まで連続しての大飢饉となった。江戸前期は藩財政に余力があったのでいくらかの救済もしたが、後期になると万単位で餓死者が発生した。現在の八戸市の南、九戸郡野田通りでは老母の屍体が600文で売買されたとか、同じ通りのある村ではアユの簗に2,3歳ぐらいの幼児が1日に30人も流れ落ちるとか、各地に凄惨な餓鬼道が展開された。そして5公5民の重税、御用金、藩主の贅沢と堕落、失政と悪政と無策。南部藩の百姓一揆は日本のトップクラスで133回を数える。
こうした江戸時代が後期から幕末に移るという時代に吉村貫一郎は南部藩の足軽だった。脱藩した理由は錦旗を奉じて官軍と名のり、勤皇の名の下に天下を支配せんとする薩摩・長州への怒りがあった。今ひとつは家族を養うお金のためだった。「子供のころから一所懸命学問していあんした。座敷に座ることの許されない足軽の子ゆえ、外廊下にこごまって、先生の声をひとつも聞き洩らすまいと…剣術も同じでござんす。文武に秀でねば立身はかなわぬと信じて稽古した。おかげで御指南の代稽古ば務めるほどに取りたてていただきあんした」と語る。
しかし藩財政は火の車で二駄二人扶持の給料に加えて代稽古(先生)の役料はもらえなかった。上級武士も半分に減俸されていた。「武士はくわねど高楊枝と人は言うだども、わしは侍とは名ばかりの小身者ゆえ、飯ば食わねば腹減った。二駄二人扶持の身代をば賜っても、夏は山さ入って漆こば掻き…銭っこ稼がねば、女房子供を満足に養うことはできねかった。同心長屋の侍はみんなそんたなこと何とかやりくりするだども、わしは藩校では先生と呼ばれ、道場じゃ御指南役の代稽古を務める立場でござんすから、いつでも背筋をぴんと伸ばして、間違っても銭っこのために頭下げることはできねがった」と語るように、どうしようもない本音と建て前の貧乏のはざまにいた。
新選組に入隊した吉村貫一郎は人斬り貫一と恐れられ、妻子への仕送りのため仲間から守銭奴、出稼ぎ浪人と蔑まされても彼は意にかえさなかった。武士のつとめは民草の暮らしを安ずることで、養う民草とはおのれの妻と子だという。そして「偉え人だちは足軽に死ね死ねというのはおのれが死にたぐねがらではねのすか。戦にて死ぬことこそ武士の誉れじゃなどと、いってえどごの誰がそんな馬鹿なことを言い始めたのでござんすか」と抗議し、「生きることこそが武士じゃと、生きて忠孝のかぎりば尽くし、畳の上に死するが武士の誉れじゃとわしはあの子供らの一人ひとりに教えてやりたがった」といっている。
妻子を養うために脱藩までして金を稼ごうとするのは義士といえるのか? おのれの命を大切にせよというが鳥羽・伏見の負け戦で、大阪の盛岡南部蔵屋敷に落ちのびて一人腹の切腹したのがわからない。しかし貫一郎は最愛の妻と3人の子を守るのに必死だった。
盛岡市内のお寺では旧盆に地獄絵が描かれた掛け軸を披露する。道ばたに倒れた餓死者の臓物をカラスがついばんでいる。
貫一郎はそうした光景を毎年見たであろう。いたる所に残る餓死供養塔に百姓や下級武士の無念さを思う。百姓は数多くの一揆経験から学び全村一揆から全領一揆へと質と量を発展させていく。一揆、1万2千有余人のその中には下級武士と思われるグループが見え隠れする。武士の収入である俸禄は父祖の功労で定められた過去給である。貫一郎の上司である組頭の太野次郎衛は手柄や能力で出世ができたが、足軽はその分を越えることはできなかった。足軽の子は足軽の二駄二人扶持でその子が何ができるのかではなく、親が何をしたかでその子の価値が決まった。貫一郎はとにかく一人で世の貧困や矛盾と格闘し考え、自分なりの理論付けをして脱藩をしたのである。
鳥羽・伏見はさんざんの負け戦で正月3日に始まったものがすぐ旗色が悪くなり、6日には木津川を渡り大阪に退いた。将軍様も御老中も会津と桑名の殿様も幕府軍を見捨てて船で江戸に逃げ帰った。敵前逃亡である。
慶応四年のこの年は戊辰の年で慶応が明治にかわった。時代の変わり目になぜか辰年がめぐり来る。この前の年10月15日、徳川16代将軍慶喜の大政奉還は勅許され征夷大将軍を辞任した。幕府に政権がなくなった。したがって理論的には幕府の家臣団にも藩主にも政権はないはずである。が、各藩の反応は不感症で南部藩は1カ月も隠し、後で知った藩士は何らの反応も示していない。豊臣秀吉は小田原に参陣した者は本領を安堵すべし、不参の者は領主権を没収すると通知した。
130年も戦国の争乱に「切り取り強盗」をしていた連中は誰が天下の政権を握るようになるか、皆自分だと思っていたし、そのために兵を養っていたわけで伊達政宗も機をうかがっていた。長い社会的・政治的混乱期のことであったから、その中から飛び出してくる天下人を把握するには活眼を要することであった。
それは時代を見る目の有無であった。政治家の力量はまさに時代の混乱期において、何が本質かを喝破できるか否かである。維新の場合は、戦国期とは反対に270余年も政権を握ってきた徳川幕府がそれを維持できなくなって返上せざるをえなくなったのである。各藩主は先祖の功で幕府から分割された政権を行使してきたが、返上によって藩の政権はどうなるのか。また藩の武力のこと、藩士、領民の扱いに幕府はふれずに、そして藩の了解を得ないで勝手に権力を投げ出したのである。将軍と藩主は明治の世を生きるが、鳥羽・伏見から五稜郭まで多くの血が流された。
吉村貫一郎の長男嘉一郎は五稜郭にこもり戦死する。流さなくてもいい血であった。いつの世も犠牲を強いられ、捨てられるのは社会を支えてきた民衆である。コブシは春一番先に咲いて雨と風と日の神さまの様子うかがいウメとサクラをさそう。そうしてユリノキの小さな若葉を見とどけて白い花を散らす。
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