交易の視点よりみた「えみし」社会の紐帯
 

女鹿潤哉

『文化要素の共有と交易よりみた「えみし」社会の紐帯』より抜粋
(『北海道考古学会』第39輯 2003年3月)


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 7世紀代の北海道余市町大川遺跡などの積丹半島周辺では、腕輪や耳飾とみられる錫製の環状装身具が出土し、8〜9世紀には、石狩低地帯などの墳墓群への副葬が多くなり、東北北半域の群集墳などにも副葬されているのに対し、該期の関東地方以南には錫製品がみられなくなるという(小嶋 1996)。そして、北海道周辺の錫産出地としては、積丹半島対岸の現ロシア領沿海地方が知られており、該地域の錫鉱石が擦文杜会に将来されて装身具に加工されたと考えられ、その分布が擦文土器(1)の分布状況と一致するとして、東北北半域への搬入には道南西部の擦文文化の人々、即ち渡島「えみし」が深く関与したともされる(小嶋前掲)

 一連の錫製装身具は、東北北半域にもたらされるものの、倭国・日本側には及んでいないことをふまえると、道南西部前期擦文文化の「えみし」社会は、錫製装身具を自ら用いるとともに、同族である東北北半域の「えみし」社会の需要に応えて供給したと考えられる。一連の錫製品が「えみし」家父長層の生前の装身具であり、副葬品ともなっていることをふまえると、既述した「黒曜石」が皮革加工を始めとする生業とともに葬送に伴うなど、「えみし」社会のアイデンティティーとも密接に関わるものであったのと同様、「錫」もまた、該期の津軽海峡をはさむ「えみし」社会のアイデンティティーに関わる要素の一つだったと解される。
 
 また、東北北半域、並びに石狩低地帯の群集墳を始めとする墳墓の副葬品として知られる蕨手刀は、上信地方で成立して東北北半域において発達したとされ(2)、その他の刀剣類や農具などの鉄製品、ガラス玉を始めとする玉類は、概ね倭国・日本側を通じて将来されたとみられている。これらの中には、国史にも散見されるように、渡島「えみし」の朝貢に際して、倭国・日本側が直接に下賜、或いは交易したものもあったはずである。またその一方で、既述した錫製装身具が、専ら東北北半「えみし」社会へと供給されていることなどをふまえると、東北北半「えみし」社会は、そうした物資の対価として、倭国・日本産品などを仲介して道南西部「えみし」社会へもたらすこともあったと考えるのが必然である。
 
 東北北半域から道南西部にわたった「えみし」社会内部における交易について知り得る資・史料は多くないが、『延喜式』には、「交易雑物」として陸奥国の葦鹿皮・独皮・昆布、出羽国の熊皮・葦鹿皮・独皮などが見えている[民部下]。同書が延喜5年(905)に編纂が開始され、延長5年(927)に成ったことをふまえると、こうした交易は、10世紀をさかのぼる9世紀代には既に行われていたと理解される。このうち、陸奥国交易の昆布については、道南函館港周辺が後世に宇賀昆布として名高いものの、渡島「えみし」を管轄する(3)出羽国交易に見えないから、陸奥国土産と考えられる。霊亀元年(715)に、現在の岩手県閉伊地方の「えみし」指導者とみられる須賀君古麻比留らが先祖代々昆布を献上してきたことを述べ、「閇村」に郡家を建てるよう願って許された記事[『続日本紀』同年10月29日]が想起される。

 一方、陸奥・出羽両国に見える葦鹿皮は、アシカ科の海獣であることは疑いないが、アシカは、北太平洋に広く分布するものの、現在、日本近海では、主として千島列島を生息地としており、綿毛をもたないことから毛皮としての価値はないとされる(今泉 1972a)。これに対して、同じアシカ科のオットセイは、ビロード状の美しい綿毛をもち、歴史的に貴重な毛皮獣とされてきた(今泉 1972b)。こうしたことから、古代史上の葦鹿は、オットセイかアザラシとみなす見解が既に提起されている(斉藤 1996)。これに対して、我が国では、アシカ(絶滅したとされるニッポンアシカ)の皮は、古くから近代に至るまで実際に利用されてきたとする反論がなされている(小口 2000b)

 9世紀の北海道には、道北東沿岸部を主体として崩壊しつつあったオホーツク文化とそれ以南の擦文文化があった。擦文文化の遺跡においては、住居跡からの動物遺存体出土例は少ないものの、奥尻島青苗貝塚からは後頭部に儀礼に伴う穿孔がなされたニッポンアシカの頭骨が7個発見されており、西太平洋のオットセイ越冬地として知られる道南西部の内浦湾に面する小幌洞穴A地点の事例では、オットセイの幼獣が多いことが判明している(西本 1985)。また、縄文〜続縄文時代の北海道沿岸部の遺跡から出土する海獣類の遺存体の集成から、地域差はあるものの、最も多く捕獲されていたのはオットセイであり、就中、既述した道南西部の内浦湾沿岸の遺跡では幼・若獣を主体とする狩猟が行われていたとされる(西本 1984)

 一方、オホーツク文化においては、儀礼的な扱いがなされた骨塚を含む遺存体から、オットセイを中心としてアザラシや鯨類が捕獲されていたとされる(西本 1985)。既述した擦文文化の事例をも考え合わせると、9世紀代の北海道において、最も多く捕獲されていた海獣はオットセイだったことがわかる。また、近世北海道のアイヌが盛んに捕獲した海獣類はアザラシとオットセイであり、アザラシは主として食用とされ、オットセイは、松前藩の産物として幕府にも献上されている事例が示すように、毛皮としても珍重されていた(犬飼 1969)
 
 以上をふまえると、古代史上の葦鹿皮は、道南西部の擦文社会、即ち渡島「えみし」のうち内浦湾沿岸を中心とする集団が直接捕獲したものに加え、一部は、渡島「えみし」がオホーツク人から交易によって得たものもあったと推察され、古代史上の「葦鹿」は、アシカではなく、実際にはオットセイだった公算が大きいことになる(4)

 また、延暦21年(802)6月24日発令の太政官符は、「渡島狄」、即ち渡島「えみし」が朝貢した際にもたらした方物を「王臣諸家」が私交易することを禁断するとともに、私交易の顕著な事例として「雑皮」をあげている[『類聚三代格』]。既述したように、渡島「えみし」への対応は出羽国の管轄であったから、渡島「えみし」は、出羽国衙、ないしは秋田城下に来朝したことになる。後述するように、元慶、天慶時の「えみし」蜂起の背景には、和夷、夷夷間の交易をめぐる複雑な利害の対立があったと考えられ、既述したように、元慶蜂起後の饗給が秋田城下でなされていることなどをふまえると、渡島「えみし」の来朝は、9〜10世紀には秋田城下が主体であったと思量される。すると、延暦21年官符の「雑皮」には、葦鹿即ちオットセイの皮や羆、「独皮」などが含まれていたことになる。
 
 弘仁元年(810)には、大同2年(807)8月19日の弾正台例によって腰帯に用いることが禁断されていた「独射葦鹿羆皮」の禁が解かれている[『日本後紀』同年9月28日]。『延喜式』民部下との対応関係をふまえると、「独射」は、「独」に解すべきものであり、同様に、既述した『日本後紀』との対応、渡島「えみし」との関連をも考えあわせると、『延喜式』出羽交易雑物の「熊」皮は、「羆」(ヒグマ)皮だった可能性が高いように思われる(5)。そして、既述した台例が発令された大同2年が9世紀初頭であることをふまえると、オットセイ・ヒグマ・「独」の皮類の交易は、8世紀代にまでさかのぼる公算が大きいことになる。
 
 しかも、『続日本紀』宝亀11年(780)5月11日、並びに既述した『類聚三代格』延暦21年6月24日官符から、8〜9世紀には、渡島「えみし」が出羽国府に来貢することが恒例化していたとされる(熊谷 1986)。また、延暦21年の時点で、渡島「えみし」と権門勢家との私交易が目に余るまでになっていたことをふまえても、こうした交易が8世紀代にまでさかのぼることは明らかである。また、ヒグマは、日本列島における生息域が通常では北海道に限定され、北海道周辺で交易品とし得る量のオットセイを捕獲できる地域は、既述した近世アイヌの例に見るように、道南西部内浦湾沿岸があげられる。そして、オットセイやヒグマなどの獣皮が日本に将来され、陸奥・出羽両国の交易雑物として定着するからには、それらが道南西部から将来されたことは明らかである(6)。するとやはり、当時の日本側が、そうした物資を直接交易し得るのは、渡島「えみし」を措いて考え難いことになる。
 
 既述したように、『延喜式』民部下によれば、オットセイ皮は陸奥国交易雑物でもあったことになるから、陸奥国側は、それを恒常的に入手できたことになるが、渡島「えみし」は出羽国管轄である。オットセイ皮が出羽「えみし」にとっても国衙や権門勢家などとの間で行われた交易物資であったことをふまえると、陸奥「えみし」が出羽「えみし」から、その多くを得たとは考えにくい。すると、陸奥国交易のオットセイ皮は、陸奥「えみし」が渡島「えみし」と直接交易して入手したと考えるのが最も自然であり、陸奥「えみし」側による対価は、鉄製品を始めとする日本産品であったと理解される(7)
  
 一方、「独」については、『和名類聚抄』のうち、近世に広く流布した伝本として知られる那波道圓校訂活字本(8)に「胡地野犬名」の註記が見える[毛群類第233]ものの、『和名類聚抄』の古式を残すとされる名古屋市博物館所蔵本(9)の該当部分には、註記が一切なされていないばかりか、「独」についてだけは和訓が見えず、早くに読みが忘れられたものと察せられる(女鹿 2002c)。すると、那波道圓校訂本の註記は、かなり後世になされた可能性があって信をおき難いことになり、「独」は、和訓が早くに忘れ去られていることをふまえると、北海道よりもさらに遠方の地から、比較的短期間もたらされたとも思量される。
 
 さらに、『和名類聚抄』毛群類の「独」は、海獣である「葦鹿」と「水豹」(アザラシ)の間に表記されており、日本近海で皮が珍重されるの海獣類としてはラッコが想起される。ラッコは、元来アイヌ語に由来し、室町時代中期15世紀の『節用集』文明本に「獺虎 ラッコ」が見えるなど、歴史的に猟虎・海獺などに国語表記されてきた(10)。また、応永30年(1423)、津軽の「安藤陸奥守」が馬20匹・鳥5千羽・鵞丸2万匹・海虎皮30枚・昆布5百把を新将軍足利義量に献じた記録があり[『後鑑』]、この「海虎」がラッコの初見とされる(大石 2001)
 
 独をアイヌ語に由来するラッコの音写とするには無理があるが、小型の海獣で、腹を上にするなどして海に浮かぶ様は犬にたとえられないでもない。筆者は、次のことを拠り所として独をラッコに比定すべきことを提起したい。即ち、は、元来、えびす(胡地)の犬を意味する語(11)で、既述した『和名類聚抄』那波道圓校訂本などの註記も、これに従ったものと解される。『延喜式』の交易雑物が確立されたと解される8〜9世紀を中心とする時期、樺太や干島列島、道北東沿岸部などにはオホーツク文化が展開しており、ブタとともにイヌが飼養され、食用にも供されたことが知られる(菊池 1978)。こうしたことをふまえると、独についてイヌとみなす見解もある(関口 1987)が、いかに異域の産とはいえ、イヌの皮が該期の日本社会に大きな付加価値を以て受け入れられたとは、どうしても考え難い。  この他、独について、近世後期成立の『松前志』がトナカイとみなすのに対して、その音などから海豹(水豹、アザラシ)のアイヌ語名カリに比定する見解もみられる(北構 1980)が、『和名類聚抄』が「独」の項とは別に「水豹」をあげ、「水豹」について、同名古屋市博本が「アサラシ」に訓註し、同那波道圓校訂本も和名「阿左良之」に註記していることをふまえると、「独」をアザラシとする理解には従えない。

 ラッコの骨類は、北海道オホーツク文化や擦文文化の遺跡から少数ではあれ出土しており、千島北部のオホーツク文化の遺跡からは多数出土するとされ(北構前掲)、オホーツク文化の北海道や千島への進出については、ラッコを始めとする毛皮獣の捕獲を目的とするものだったとする指摘もみられる(大塚 1998)。中世日本社会において、皮が最も珍重されたラッコが、古代にあっては一顧だにされなかったとは考え難い。また、ラッコは、かつては襟裳岬以北の北太平洋に生息したとされる(今泉 1972c)が、近世初頭、南部千島にあった北海道系アイヌは、自らラッコ猟を行うとともに、中部千島以北からカムチャツカ半島にわたってラッコ猟を行った千島アイヌからラッコの毛皮を入手し、日本側へ供給していたとされ、日本近海では、中部千鳥ウルップ島以北が主たる猟場であった(北構前掲)
 
 ラッコ皮の中世日本市場への供給は、実際には現存する文献に登場する15世紀以前にさかのぼる可能性はあるが、律令期の「独」と中世の「獺虎(猟虎・海獺など)」との間には、時間的な断絶があることもまた事実である。このことについて、筆者は次のように考える。独、即ちラッコ皮の供給者は、千島方面のオホーツク文化の形成者であったと理解されるが、道北東部のオホーツク文化は、9〜10世紀以降、崩壊に向かうとされる(右代 1995、大沼 19969)から、道北東部のオホーツク文化の崩壊と擦文化は、その供給を途絶させたと推察される(女鹿 2002c)。古代のある期間、千島方面のオホーツク人が交易目的に捕獲したラッコ皮は、渡島「えみし」を通じて日本などとの交易品となったものの、道東北部、さらには千島方面のオホーツク文化の崩壊に伴う混乱によって、ラッコ皮の供給が長く途絶えたものと理解される(女鹿前掲)。千島アイヌは、13世紀以降に北海道方面から該地域に進出したアイヌがオホーツク文化の末裔などを同化して成立したと考えられ(12)、千島アイヌが交易を目的として盛んにラッコ猟を行うようになると、千島南部を含む北海道アイヌを介して中世日本社会にアイヌ語起源の「獺虎」などとして供給が再開されたものと理解する(女鹿前掲)

 以上をふまえ、「独」をラッコに比定するとともに、ラッコ皮の多くは千島列島のオホーツク文化形成集団に由来するもので、道南西部擦文文化の主体である渡島「えみし」が、道北東部の擦文文化の人々を通じて入手し、出羽国衙や権門勢家、出羽・陸奥「えみし」などと交易した結果、古代日本社会に将来された可能性について提起するものである。また、道南西部と陸奥・出羽とにわたった「えみし」社会においては、『延喜式』民部下などに見るような獣皮類と日本産品との交易が9世紀までには確立されており、それは、延暦21年発令の官符、並びに大同2年の台例などから、8世紀代にさかのぼるものと理解される。

 さらには、錫製装身具などが、既に7世紀に渡島「えみし」によって東北北半「えみし」社会にもたらされ、家父長層の身を飾り、群集墳に副葬されたことをも考え合わせると、こうした交易は、7世紀代にまでさかのぼる可能性さえ生じさせる。やはり、東北北半域や石狩低地帯などにおける群集墳出土の副葬品との対価相応を考えれば、7〜9世紀には、東北北半域からは鉄製品や玉類を始めとする倭国・日本側物資と、道南西部からは錫製装身具やオットセイ・ヒグマ・ラッコなどの毛皮類とが、相互に交易されたと理解される。そこにはまた、東北北半域から道南西部にわたった「えみし」社会の紐帯をみてとることができるのである。



むすび

 古代の東北北半域から道南西部にわたる地域、即ち「拡大文化圏」南半において、土器を始めとする物質文化のみならず、精神文化面の諸要素、価値観をも共有した在地集団の主体が「えみし」であった。また、該地域におけるこうしたあり方は、縄文時代早期〜弥生時代中期における地域性、即ち「共通文化圏」に通じるものがある。例えば、土器様式を共有する要因としては、世界の民族例などから一般に通婚と交易関係が関与し、土器型式面での伝播には、文様などのデジタル型情報、並びに要素に分解できない全体のムードなどのアナログ型情報があり、デジタル型の伝播には言語も深く関わるとされる(上野 1986)。そして、縄文時代中期には、東北南半域を中心とする大木式、東北北半北域から道南西部を中心とする円筒上層式、同末葉の道北東部に展開した北筒式の間には、アナログ型情報は伝わるも、デジタル型情報は伝わらなかったとして、その要因は言語の差異によるものとされる(上野前掲)
 
 今日の国語方言のグループ化による検討からも、東北地方は、仙台の北と秋田県南部とを東西とする北半と南半とでは異質であり、両者は、長期問にわたって異なる文化圏にあったとされ(浅井 1979)、上野前掲は、国語学上の理解とも整合する。東北北半、就中、その北域山間などには、アイヌ語に由来するとみられる地名がまとまりをなす形でみとめられ(13)、同じく山間の狩猟集団マタギの山言葉にもアイヌ語に共通する語彙が複数存在している(金田一 1937)。こうした東北北半域を中心とするアイヌ語的要素は、道南西部との文化諸要素や価値観などの共有をもふまえると、「共通文化圏」「拡大文化圏」成立の背景には、相互に通じ合うアイヌ語系言語の共有があったことを示唆している(女鹿 1997a・b、2002a)
 
 ただ、縄文時代中期の東北地方から道南西部における円筒式と大木式の形体上の差に比べ、同末葉の北海道にみられる北筒式と円筒式と形体上の差はそれほど大きなものではなく、全道に今日残る地名が、おしなべてアイヌ語か日本語によるものだけである(山田 1974)ことをも考え合わせると、北海道の南西部と北東部とにおける言語を始めとする文化面での地域差は、東北北半域と東北南半域との差異ほどに大きくはなかったと理解される。結果として、「拡大文化圏」における言語上の融合が今日のアイヌ語を成立させたと解されることから、言語の近縁性が「拡大文化圏」形成の下地ともなったと考える(女鹿 1997b、2002a)。そうした下地は、その濫膓たる「共通文化圏」にまでさかのぼるもので、密接な通婚・交易関係とわかち難く結び付く言語や精神文化を含めた文化諸要素、価値観などの共有があったと理解される(14)

 以上をふまえると、東北北半域から道南西部にわたった「えみし」社会は、古代を通じて縄文時代以来の通婚・交易関係を維持するとともに、文化上の諸要素や相通じる価値観を共有するなど、わかち難い紐帯で結びついていたと理解される。





(1)  小嶋(1996)は、既述した7〜8世紀の東北北半域から道南西部に展開した沈線を有する土器群を擦文土器に含めている。 戻る

(2)  大場(1947)、並びに石井(1966)に拠った。 戻る

(3)  弘仁元年(810)に気仙郡に漂着した渡島狄について、陸奥国は「当国の管る所にあらず」[『日本後紀』同年10月27日]とし、後述するように、8〜9世紀には、渡島「えみし」が出羽国府に来貢することが恒例化していたとされるなど、渡島は出羽国管轄であったことが判明する(熊谷1986)。 戻る

(4)  女鹿(2002c)は、古代史上の「葦鹿」について、その音からアシカとみなしたが、既述した検討の結果、オットセイを指すものと見解を修正するものである。 戻る

(5)  同じく『延喜式』内蔵寮は、「熊皮20張」について「出羽国交易」としており[諸国供進]、同条の「熊」は、同民部下の「羆」に同じであるとする指摘が既になされており(関口1987)、左袒するものである。 戻る

(6)  平安時代末の源仲正(源三位頼政の父)詠に「わか恋はあしかをねらふえそ舟のよりみよらすみなみ間をそ待」[『夫木和歌抄』所収]と見え、王朝期の和歌に詠みこまれたエゾは、津軽や北海道方面を対象とすると考えられるから、オットセイは北海道所出とみなし得る。また、ヒグマについても、斉明紀に、粛慎を討った阿倍比羅夫が「生羆二羆皮七十枚」を朝廷に献じており、粛慎は、道南西部にあった渡島「えみし」に隣接するものとされる[4年是歳]から、渡島「えみし」に由来する交易雑物としての「羆皮」もまた、北海道土産と考えるのが自然である。戻る

(7)  註 (3)に見る渡島「えみし」の気仙郡漂着についても、交易を目的とするものであった可能性がある。戻る

(8)  正宗(1977)に拠った。戻る

(9)  名古屋市博物館(1992)に拠った。戻る

(10)  日本国語大辞典第二版編集委員会他(2002)に拠った。戻る

(11)  諸橋(1976)に拠った。戻る

(12)  樺太・千島については、後北C2・D式期以降、「拡大文化圏」を象徴する北大式土器は展開しておらず、擦文文化の遺跡も存在しないとされる(菊池1978)が、後期の擦文土器は、樺太南部や国後島などに及んでいる(中田1996)。また、『元史』や『経世大典』序録[『元分類』所収]をふまえると、アイヌ文化の成立とアイヌの樺太進出は、遅くとも13世紀を降るものではありえない(菊池前掲)。既述したように、アイヌ文化の成立を12〜13世紀とみなすと、該期に近世におけるアイヌ文化圏の原型が確立されたと解され、千島においても、資料には乏しいものの、樺太と同様の状況を想定する(女鹿1996、榎森2001)のが自然である。戻る

(13)  山田(1974他)に示唆を得る形で、岩手県域における2広域地区において行った「アイヌ語地名」の調査と考察の結果によっても検証される(女鹿・及川1991、1997)。戻る

(14)  詳細については、女鹿(2002a)を参照のこと。戻る

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