思      い
 
磯部正昭
 
 私は小さい頃、北海道南部の町で過ごしておりました。小学校の時教室で聞いた「マツロワザルモノ」と言う言葉は、当然のこととして全く東進する側の一員として感情を入れて聞いていました。「マツロワザルモノ」が何故言うことを聞かず逆ってばかりいたのだろう、言うことを聞いて仲良くしたらと憎らしく又恐ろしい思いで聞いていました。その「マツロワザルモノ」と言われた人達はその後どうなったのだろうか、山に逃げた。北の方に逃げた。土地で百姓になった。「奥羽地方はその様な昔だったのだ」と言う話に、「待てよ」俺の父も母も山形出身だ。野蛮粗暴な朝敵「マツロワザルモノ」の流れを汲む家系なのだろうか。−「これは問題だ」なんとか朝廷に従う東征群側にいたことを説明する筋道はないだろうかと小さな胸を痛めたことを思い起こします。
 しかし、東漸者は、砂金や鉄、昆布や鮭、熊や鹿の皮、馬産地として、又稲作の豊かな土地への侵略者そして収奪者だったのですから。
 一方からだけ見た歴史を教えられ、又後々自分でも葉隠精神は等と皇国史観に踊らされていた軍国少年だったのですから全くおかしくなります。しかし、それも昔になってしまいました。そして、今思うことは。
 世の中の流れを読むことがどんなに難しいかを思わされています。新聞、ラジオ、テレビと見聞きする情報も、出す側の位置で違いがあることを知らされます。そして事件の複眼的な見方の大切さを考えさせられます。
 古代東北の歴史は私達の祖先の地として関心が高まるばかりですが、その歴史は東漸者の立場からのものが殆どであり、先住者の側の語りが少く歪曲されたことは残念なことでした。しかし、「それも遺跡の発掘と同時に東北の正当な語りや主張を掘り起し、私達の誇りを取戻すことが大切だ」と言われ始めたことは蒙を啓かれる思いです。
 こんなことを思いながら、柴田会長が岩手日報の13年4月に掲載された、『いわてへの提言』を心底、失礼ながら我が意を得た思いで読まさせて戴きました。特に子供達への啓蒙、PRの必要を説かれたことなど深く共鳴いたしました。
 
 ここで一つ少し身を引いた見方へのご批判を仰ぎたいのですが、東漸者達は時の為政者による「ゆきて取るべし」の許での侵略収奪であったことは間違いないことなのです。しかし個々の事例としてみた場合東漸者の「取るべし」の方法として、懐柔策や真面目な宣撫工作が種々弄され、食料や衣布の給付、官位や権限の付与等があったことで、逆に先人は懐柔策の実質を利用する、建前と本音を上手に使い分けるしたたかさを持ったのでないか。又、時の流れを読み心底熟蝦夷として朝廷側に立った人もいたのでないか。又、収奪と交易の間には、どこから収奪でどこからが妥当な交易なのか、経済生活の取引きでの掛引きなのか等々灰色であった所も考えられなくはないか。そして先住者の中にはさまざまな思いや行いがあったのでないだろうか。東漸者の中にも当然暖かい判断の人も活躍していたであろうと思うのですが、先住者と東漸者の言い分となった時、私達の身贔屓から「先住者の苦しみ、犠牲に組みし、東漸者の卑劣傲慢を憎み、全てを白と黒で分けてしまう様な落し穴に入らないか」冷静な判断と筆の勢いに注意しなければと思っています−これは私のことです−
 この様に素直でなくなっている私は、「卑劣な扱いを受け、傲慢な仕打ちを受けて来た者の末裔である私達が未だに田村麻呂を敬うことを諒としている」。このことに疑問を持ってから久しいのです。未だ納得のゆく答を見つけていません。得心のゆく本が読みたいものと思っています。
 
 それから、これは全く別なことになりますが、私としては、一寸した見つけものをした思いでおりますのでご紹介いたします。
 私の父方の祖先は400年前に越後から米沢在に移り住んだ者でした。例の上杉藩の移封による下級武士としての移動でした。以前からその出身の地が気になっていたのでしたが、この春に思い切ってその墳墓の地を尋ねてみました。村上市の北、三面川の流域でした。一時は上杉にも抗した小さな豪族のもとにいた祖先でしたが、現在も苗字を同じくする家が何軒かあることを知りました。又村の図書館で400〜500年前の豪族間の確執が多かったこと等が読めたり、思いを馳せて来ましたが、藩の移封の時は、「藩士としての移動はどうだったのか、家族の移動はどうだったのか、どんな道をどうやって家財を運んだのだろうか」と興味を持って走り読みしていると、− その記述を見つけたのです。これは確認した思いもあって嬉しいものでした。その中にはこう述べられていました。
 慶長三(1598)年二月十日付「直江兼続覚書」によるものとして、
 引越しの段取りについては侍の家財は給地の百姓を人足に使って運ぶこととされている。「荷物のある限り何度でも動員して、不平を言うものがいたら処罰すること」等重い負担が民衆にのしかかったのである。二月、越後に春がようやく訪れようとしていたが峠道には雪が残り往復は難渋をきわめた。給地の百姓だけでなく、沿道の宿では狼藉や宿賃の踏み倒し、家財の押売り食料の押し買いに遭っていた。実際、引越しの出費は大変であったらしく、同僚から三石の米を借り、担保として自分の妻を奉公させた者さえいた。「新国主堀秀治は七月から検地を実施したが、検地帳には多くの荒田畑が記載された。百姓が春先からの人足動員で農耕に従事できなかった為であった」と言うものでした。
 やはり移動に伴う、様々なことは、百姓を始め多くの人々を巻込んだ大変な犠牲が強いられていました。下級武士としての先祖も似たり寄ったりの経験をして現在地に納ったのでしょう、菩提寺の住職は川沿いの道は危険で山道、峠道を通ったと説きます、これもどんな経路だったか、年寄りや幼児はどんなに難儀なことであったろうかと想像に難くないところです。しかし、今、現在の地点から見た時、減俸であれ加増であれ、この山道の先きには妻子を養う所があることを約束されているのです。給地に到着さえすればの、我慢であったと思うのです。
 それに比べ1200年前の先人達の移動は、東漸者達の専横や略奪から逃れ、奥山に入り、又、北に向う人達の心は苦しみと憎しみを抱いての移動であったのではないでしょうか。いかに自由に向っての新天地を求めて、と言っても、住み馴れた土地を理不尽に離れなければならない悔しさはいたたまらぬものがあったことと思います。
 400年前の先祖のことから思いは、又1200年前の先人に溯ってしまいました。
 そして、今、東漸者も先住者も東北人の祖先であること。そして、先人が苦しみで築いて来たこの地では、その苦闘をはっきりさせ、又より正鵠を得た歴史を紡ぎ乍ら後世に誇れる語りを持ちたいものだと思うこのごろです。