閉伊村のえみし

柴田弘武

1 閉伊(閇・幣伊)村とはどこか
2 「ヘイ」の地名由来
3 古代史上での閉伊地方のえみしの記録
4 閉伊のえみしと都母・渡島えみしの関係
5 特産物
6 閉伊地方の考古学の成果から
7 伝承・伝説


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1 閉伊(閇・幣伊)村とはどこか

 『続日本紀』霊亀元年(715)年10月29日条に、陸奥国のえみし第三等邑良志別君宇蘇弥奈(おらしわけのきみ・ウソミナ)の和国の律令政府への申請として、「親族死亡し子孫数人。常に狄徒に抄略されることを恐れる。ついては香河村に郡家を建て、私たちを編戸の民とし、永く安堵を保ってほしい」(香河村は二戸地方とされる)という記事がある。それに続けて、えみし須賀君古麻比留(すがのきみ・コマヒル)の申請として、「先祖以来、昆布を貢献し、常に此の地に採る。年々闕かさず。今、国府郭下、相去ること道遠し、往来旬を累ね、甚だ辛苦多し。請うらくは、閇村に於て、便りに郡家を建て、百姓に同じ、共に親族を率い、貢を闕かざらん」とあり、これが共に許可されたという記事がある。

また『日本後紀』弘仁2年(811)の文室綿麻呂(ふんやの・わたまろ)の征夷記録には「弊伊村」(7月13日条)とか、「幣伊村」(7月29日条)とか、「遠閇伊村」(12月13日条)という村名が出てくる。「閇」は「閉」の俗字であり、「幣」も「弊」も同音の当て字であろうから、いずれも「へい」村と読むべきであろう。

 それではこの「閉伊村」とはどこをさしていたのであろうか。  関口明氏の『蝦夷と古代国家』(吉川弘文館1992年刊)によれば、古代蝦夷関係記事に出てくる村には2つの類型があり、一つは秋田村・雄勝村・伊治村のようにのちに郡に編成されるタイプと、もう一つは巣伏村のように郡に結びつかないタイプであるという。それによれば閉伊村は鎌倉時代に閉伊郡となり(郡名の初見は元亨4年<1324>11月23日の関東下知状案)、近代の閉伊郡に続く郡名であるから、前者のタイプであることはいうまでもない。村といっても甚だ広大な地域をさす用語であったと思われる。

 関口氏は同書で、「閇村は、閇伊・弊伊・幣伊などと書き、岩手県東部山岳、海岸地方一帯の称であるが、本記事には『貢献昆布』とあることから、三陸海岸線であることには違いない。牡鹿郡内とみる説もあるが、並称されている香河村との関係から馬淵川下流の八戸付近、すなわち田面木平遺跡と推定することもできるだろう」と述べている。

 『角川日本地名大辞典・岩手県』(以下『地名大辞典』)は、「本県東部山岳・海岸地方一帯の称。南は気仙郡、西は北上山地を隔てて北上峡谷地帯の江刺・和賀・紫波・岩手諸郡に接し、北は旧糠部・九戸郡に隣り、東は太平洋に臨む」と述べて、広大な地域を指しているとする。 しかし『日本歴史地名大系3 岩手県の地名』(以下『地名大系』)は、コマヒルの奏言を紹介した後「これによって、のち閇村は権郡の扱いになったと考えられるが、その範囲は海岸部のいくつかの集落を一括したもので、文面からして広範囲をさすとは考えられない」と書く。ただし弘仁2年条の幣伊村に関しては「爾薩体(にさったい)を現二戸市、都母(つも)を現青森県南東部とする説があり、閉伊の地が爾薩体・都母の地に隣接するとすれば、現久慈市・九戸郡の地域までも及んでいたとも考えられる」と書いている。

霊亀元年の「閇村」も弘仁2年の「幣伊村」・「遠閇伊村」も同一の地名と考えるならば、『地名大辞典』のいうように、北上山地から三陸海岸部までの広範な地域をさすものと考えなければならないであろう。

 

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2 「ヘイ」の地名由来

 吉田東伍の『大日本地名辞書』(以下『地名辞書』)は、『復軒雑纂』が弘仁2年の閉伊村が「宮古湾頭の地是れなり」と書いていることを紹介したうえで、「其東北湾辺に戸之崎(ヘノサキ)の地ありて、宮古川の旧名を閉伊川と云へり、閉は蝦夷語のPe.(水)なるべく、其閉河閉崎の現存するより見れば、上代の閉伊村の夷族の部落は、此地なりしこと論なからむ」(戸之崎は現在の閉伊岬、また宮古川は現在閉伊川と呼ばれている)と書いて、それが蝦夷語のPe(水)に由来するとしている。

 楠原佑介ほか編著の『古代地名語源辞典』には、「へ(辺)で『陸地の辺』(=端)」とか『辺境』を意味する地名か。あるいは新征服地に『敝』(『破れる』『衰える』の意)という漢字による蔑視的な地名をつけたものか。(中略)アイヌ語説もあるが、はたしてどうであろうか」とある。

 吉田茂樹著『日本古代地名事典』では、「『へ(端)』の意で、奈良時代初期における陸奥国の端の地をいう」とする。

 谷川健一監修の『東北の地名・岩手』は、「常食用の稗が『ヒエ・ヘエ』となまったとする説、『へ』の長音化による『ヘイ(平・稗・冷)』説があるけれども不明である」と書く。  わがえみし学会の元会員であった菅原進氏は、新著『随想アイヌ語地名考』(増補改訂版・2003年刊)で次のように書いている。

 「私の考えでは、かつて、『へい』は、=『ヒエを主食とする人たちの住む村』ということで、『ヒエムラ』と呼ばれ、それが方言で『ヘムラ』と発音され、その『ヘムラ』に当て字されたのが続日本紀霊亀元年条にある須賀君古麻人留の村の『閇村』だったということであり、(中略)  一方、この『へい』についても、私見でございますが、アイヌ語系古地名ではないかという見方が可能であり、次のように解することができるように思うのです。

 『へい』の語源は、=アイヌ語の『ピ・エツ・ウシ(pi・etu・us・i)』の後略の『ピ・エツ』でありそれが転訛して『ピエ』→『ペイ』→『へい』になったものと推定することができ、その意味は、=『岩崎・そこに多くある所』になります。

 この地名解釈は、陸中海岸のリアス式海岸地形の特長をよく捕らえたアイヌ語系地名説であるということができると思います。」

 以上のようにさまざまな説があるが、私は最後の菅原進氏のアイヌ語起源説に引かれるものがある。皆さんと共にさらに検討を続けたい。


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3 古代史上での閉伊地方のえみしの記録

 実はこれが、1で紹介した霊亀元年と弘仁2年のものの他は、応徳3年(1080)1月23日の前陸奥守源頼俊申文(御堂摂政別記裏文書)しかないのである。

 霊亀元年のものはコマヒルが、先祖以来昆布を貢納してきたが、国府へ通う道が困難なので、新しく郡家を造ってほしいという要請文であった。これが許可されたというのであるから、閇村のどこかに郡役所が設けられたわけである。

 注目されるのは霊亀元年(715)という年代である。『日本書紀』には蝦夷朝参のことは敏達10年など、何回かの記事にもみえるが伝承の域を出ない。蝦夷の記事で信頼性が持てるようになるのは、やはり645年の大化の改新以後の記事であろう。有名な斉明天皇4〜6年(658〜660)の阿倍比羅夫の遠征記事は事実として認められるという。彼は日本海側から秋田・津軽・渡島(北海道と考えられる)方面に行っている。コマヒルの奏文はそれからわずか半世紀後の太平洋側の記録である。しかも先祖の代から貢納を勤めているとしている。そうすると閉伊地域からの昆布貢献は阿部比羅夫の遠征とさほど隔たった時期のことではなかったことが想定される。もちろんこれは律令政府側の記録であるから、文字どおりの「貢献」であったかどうかはわからない。あるいはコマヒル側にしてみれば対等の立場に立った一種の交易であったと思われる。このとき造られたはずの閇郡なるものもその後の記録にはいっさい出てこないし、延暦年間以後の胆沢、江刺、和賀、稗縫、斯波郡などの建郡記事以降も閉伊郡の記録はない。従ってこの時郡役所が造られたにしても権郡(ごんぐん=仮の郡)であったことは明らかである。

コマヒルの居住地も不明であるが、昆布の貢献という事実から、それが三陸海岸沿海部であったことは間違いないだろう。その場合『地名辞書』がいう岩泉町小本(おもと)の須賀地名は「一案」かもしれないが、ここではあまりにも辺地過ぎる。『地名大辞典』によれば、宮古市内にも須賀地名が散在するというから、今も漁港でにぎわう宮古市内こそやはりコマヒルの居住地にふさわしいと思われる。また後に述べるように、宮古市の長根T遺跡の古墳の出土品も大和朝廷との関係を暗示するものがある。

 なお霊亀元年という年代は、陸奥の国府として有名な多賀城はまだ出来ていない(多賀城の設置は神亀元年<724>とされる)。この時の陸奥国府は7世紀後半に築造されたとされる、仙台市太白区にある郡山遺跡であろうという。

この閇村郡家設置に意義について、樋口知志氏(岩手大学)は「陸奥国府まで昆布を運ぶのがたいへんだから閇村に郡家を置いたというのは、わざわざ遠隔地へ運搬することなく、採れた昆布をその郡家に運び込むだけで済ませることができるようになったことを意味する。ということは、閇村と国府を結ぶ連絡便の運航が始まり、昆布はそのルートに乗って国府へ運ばれることになったのだろう。閇村と国府との間に正規の交通路が開けたことにこそ、重要な意味があったのである。」(「古代の閉伊地方」、2001年3月10日、釜石市民会館における「市民考古学のつどい」レジュメ)と述べ、昆布運搬ルートを海上輸送と想定している。一般にはこの通路は陸上交通のことと考えられていただけに、注目すべき見解である。

その後『続日本紀』、『日本後紀』に出羽・陸奥の記録は頻出するが、陸奥側では北上川流域の地域のみがその対象であって、閉伊地方のことは全く出てこない。ただ『日本後紀』弘仁2年(811)12月10日条に、嵯峨天皇の宣命として、桓武天皇の時坂上田村麻呂が「遠閇伊村を極めてほぼ掃除したが、なおえみしは山谷に逃れて身を隠した」と出てくる。これはおそらく延暦20年(801)の征夷のときのことだと思われるが、『地名辞書』はこの「遠閇伊村」とは現遠野市であるという。同感である。

 さて弘仁2年の陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂の征夷であるが、これは同年3月20日条によると、綿麻呂から、2月5日に陸奥・出羽両国の兵26,000人をもって、弐薩体(にさったい=二戸市仁左平が遺称地)・幣伊二村を討ちたい、との奏が出されたのでそれを許可した。しかしその後3月9日には10、000人の減員を申し出があったのでそれも許可した。この間大伴今人が勇敢の俘囚300余人で雪を侵して不意に蝦夷を襲い、弐薩体の残賊60余を殺したというようなこともあった。

 4月19日には「国之安危、この一挙にあり」と綿麻呂は天皇から激励されるが、なお綿麻呂は準備が整わないとして逡巡するなどして、この征夷は計画通りにはなかなか進展しなかった。  7月4日の奏状によれば、俘軍1,000人をもって、キミコベ・オヤシベらに委ねて弊伊村を襲おうと計画したが、かの党類は巨多のため、失敗の恐れもあり、さらに奥羽各1,000人の俘軍の増援を求めている。

 そうこうしているうちに、出羽国から奏言があった。その内容は、邑良志閇村(オラシベ村=奥入瀬川流域か?)の降俘キミコベ・ツルキが「おのれ等は弐薩体村の夷イカコ等とは久しく仇怨を構えています。今イカコ等は兵を練り、衆を整えて都母村に居り、幣伊村の夷を誘ってまさにおのれ等を討とうとしています。伏して兵粮を請い願います。そして先んじて襲撃しましょう」と言ってきた。そこで「賊を以って賊を討つのは軍国の利です。したがって米100斛を給してその情を奨励したいと思います」というものであった。これが許可されてどうやら作戦は成功したらしい。

 10月13日条によると「斬獲やや多く、帰降少なからず」とあり、俘囚は当土に安置し、新獲の夷は中国(王朝支配地)に移配せしめよ、という命令が下されている。  その年12月には、田村麻呂のときにも征服しきれなかった蝦夷を、綿麻呂はついにその種族を絶つことに成功した、として綿麻呂らに叙位があった。そして「宝亀5年より当年に至る、惣て38年」と征夷の終結を宣言したのである。

 しかし実際にはその後も都母・閉伊はもちろん弐薩体を含めた、後の九戸郡以北には律令政府は支配力を及ぼすことはできなかった。

 その後応徳3年(1086)1月23日の前陸奥守源頼俊申文によると、前九年の役後の治暦3年(1067)に陸奥守に任じられた頼俊は、「衣曾別島の荒夷並びに閇伊七村の山徒」を討ち従えたとある。それまで閉伊地方はあいかわらずえみしの天下だったことがわかる。この記録が蝦夷平定戦の最後のものとされる。

 なおこれは閉伊村と関係があるか否かは判然としないが、『類聚国史』天長10年(833)2月20日条に、「筑後国夷第五等都和利別公阿比登を従八位上に叙した。私稲を輸して弊民に資したためである」という記事が見える。『地名辞書』はこれを弘仁2年のこととしているが、それは誤りである。ただこれを「都加利別公阿比登」と記し、「津軽てふ郡名あり。今の夷語に、ツカラ(海豹)ツカリ(近傍)ウシ(地)、合考すべし」として、筑後国に移配されたツカリワケノキミアヒトは津軽の出身ではないか、と注意を促しているのである。

 私も「都和利別」は「都加利別」ではないかと思うのであるが、現在の青森県の津軽地方は律令政府の支配下に入らなかったので、そこから筑後国に移配されたとは考えにくい。ところが宮古市にも津軽石の地名が存在する。菅原進氏の前記著書によれば、「つがるいし」の語源は、アイヌ語の「ツカル・ウシ・イ」→「ツカルシ」で、その意味は「アザラシ・そこに群生する・所」だそうである。氏は「自然が豊かな古代のことですからこの辺りにアザラシがいたということは十分に納得のいくところであり、この解釈は有力であります」と書いている。

 氏はそのほかにも3種類のアイヌ語解釈説も紹介されているが、要はこの地の津軽石がアイヌ語で解釈できることであり、その姓を名乗るアヒトは閉伊地方の出身であったという想定が許されると思うのである。彼が筑後国に移配された後、爵位を持つ成功者になっていたということは、想定するだに楽しい記録である。

 

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4 閉伊のえみしと都母・渡島えみしの関係

 ところで閉伊のえみしは、コマヒル一党が昆布を採取していたことなどから見て、主として三陸地方の海辺を活動の舞台としていたことは間違いない。そうすると北側沿岸続きの都母(つも=青森県東南部一帯とされ、青森県天間林村の坪が遺称地)や、いわゆる「しょっぱい川」である津軽海峡を挟んだ渡島(本州説もあるが、私は北海道説をとる)のえみしとも交流が深かったと考えられる。

北海道積丹半島周辺や、おそらく都母の範囲に入っていたと思われる八戸市の丹後平(たんごたい)古墳(7世紀後半)から錫製釧(くしろ=腕輪)が出土しているが、宮古市の長根古墳群や山田町の房の沢(ぼうのさわ)古墳からも同様の錫製釧が出土している。なお宮城県多賀城市の大代(おおしろ)横穴5号墓からは錫製耳環が出土している。

小嶋芳孝氏の「蝦夷とユーラシア大陸の交流」という論文によれば、「小樽市の蘭島遺跡などで出土している環状錫製品の出土例は、北海道から東北太平洋岸の七〜九世紀代の墳墓を中心に見ることができる」とあり、これをロシア沿海地方の靺鞨文化との交流による北方文化の特徴としている(鈴木靖民編『古代蝦夷の世界と交流』名著出版、1996年刊、所収)。

いまのところこのような錫製品は日本海側には出土していないそうであるから、これは北海道から太平洋側の海上ルートを通して南下した文化と見てよさそうである。

また高橋信雄氏の「蝦夷文化の諸相」(前記著書所収)には、「長根T遺跡の古墳群は、古墳の立地や構築方法などは、北上川流域あるいは馬淵川流域と趣を異にする古墳群であるが、仕切溝などは丹後平古墳群と同様で、新しい時期では秋田県秋田市湯ノ沢F遺跡の土壙墓と共通するものと考えられる。また、蕨手刀などは東北地方北部の終末期古墳の代表的な遺物のひとつであり、律令政府との関係を推測できる和同開珎の出土など、興味深い資料を多く示す古墳群である」と書かれている。閉伊と都母の共通性を示すものと言えよう。

また都母村の中心地と考えられる青森県天間林村森ケ沢遺跡からは、明らかに古墳文化の所産である土師器や須恵器とガラス玉や石製平玉と北海道の続縄文文化の北大式土器が、北方的な特徴を持つ墓から一緒に出土したとされる。

和同開珎の出土に象徴されるように、奈良時代以降、当地域が律令政府と交流があったことは確かであるが、それは必ずしも律令政府の支配下に入ったことを意味するのではない。そのことは先にも述べたように弘仁年間に至っても征服の対象であったことでもわかることである。これら律令国家の物産は交易の産物と見るべきであろう。

本会の資料集にいつも論文を寄せてくださっている女鹿潤哉氏も、かねてから北海道南西部と東北北半域はアイヌ語系言語を共有する、「共通文化圏」・「拡大文化圏」であったと主張されている。本号にも掲載されている氏の論文「文化要素の共有と交易よりみた『えみし』社会の紐帯」にも、「7〜9世紀には、東北北半からは鉄製品や玉類を始めとする倭国・日本側物資と、道南西部からは錫製装身具やオットセイ・ヒグマ・ラッコなどの毛皮類とが、相互に交易されたと理解される。そこにはまた、東北北半域から道南西部にわたった『えみし』社会の紐帯をみてとることができるのである」と指摘されている。氏は特に太平洋側の北東北を述べている訳ではないが、三陸海岸部も視野に入れていることは言までもないであろう。

このような渡島・都母・閉伊を結びつける交通は当然太平洋沿岸航路であったろう。『日本後紀』弘仁元年(810)11月27日条に、「渡島の狄200余人が気仙郡に来着した。当国の管轄下ではないので帰去するよう命じたが、彼らは、今は寒節の時期で海路を越え難い。願わくば来春の候に本郷に帰らせてほしいと願ったので、これを許可した。留住の間の衣糧を給する」とある。

「当国の管轄下ではない」というのは、渡島は出羽国の管轄下という意味である。しかしそれは王朝政府側の見解で、渡島のえみしにとっては関係ないことであったろう。 それはともかく、来着した渡島のえみしは200余人というのであるから、かなりの船団をもって来航したことが想定される。しかもそれはたまたま漂流してきたものとは思われず、おそらく交易のための船団であったろう。このことから見て、えみしたちは三陸沿岸航路をかなり自由に航海していたと考えられる。このことは樋口知志氏も先に紹介した「古代の閉伊地方」という講演で指摘し、「古墳終末期時代の列島北部における太平洋海運を介した様々な交流については、今後の解明が待たれるところである」と述べているが、まったく同感である。

 

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5 特産物

 それでは閉伊地方はいかなる物産を産し、それを交易の手段としてきたのであろうか。その一部はすでに述べたところであるが、ここで改めて確認しておこう。

イ.昆布
まずコマヒルが先祖代々律令政府に貢納してきたのが昆布であった。昆布は『延喜式』の中にも陸奥国の「交易雑物」として、「葦鹿皮・独K皮・砂金・昆布・策昆布・細昆布」として挙げられている(葦鹿皮・独狗皮については、女鹿氏の論文を見てください)。策昆布・細昆布がどういうものかよくわからないが、昆布の一種であることは間違いないだろう。

大友幸男氏はその著『江釣子古墳群の謎』の中で、中国の史書『論衡』に「周のとき倭人暢草を貢す」とある「暢草(ちょうそう)」とは昆布のことで、紀元前7〜8世紀の中国でも長寿の健康食として珍重されていたと述べている。それはともかく昆布は親潮系の海草で、南千島から北海道の東南海岸、三陸地方の特産で、「良質の昆布の生育地は、ほぼ三陸に地方にまたがり、南限は親潮の南下する金華山付近となっています」と指摘している。

昆布のことを古代には「衣比須女(いびすめ)」ともいった。「衣比須」は「イビス」、すなわち「えびす」である。「女(め)」は海草のことを広く「メ」といった。要するに「蝦夷の海草」である。いかに蝦夷地の特産であったかがわかる。昆布を産する蝦夷地とは三陸海岸をおいてほかにない。

ちなみに大友氏によれば、昆布はアイヌ語で「コプ」というそうである。

ロ.鉄
 1992年に山田町織笠の上村遺跡で、8世紀後半と見られる製鉄遺跡が発見されて、俄然三陸地方の古代製鉄が注目されるようになった。上村遺跡について、八木光則氏は「蝦夷社会の地域性と自立性――陸奥を中心として――」という論文(『古代蝦夷の世界と交流』所載)で次のように書いている。

 「最近岩手県上村遺跡で、八世紀後半とみられる製錬炉九基と鍛冶遺構二基が確認された。この地域は城柵官衙から離れ、郡制が施行されていない地域にあり、また周辺に多くの鉄器が普及していることから、官営的な工房でなく、在地向けの工房と考えられる。前述のように北東北での鉄器の遺存率は南東北を越えるものであり、上村遺跡は北東北独自の製錬を証明するものである」

 その後山田町では山ノ内V遺跡(10世紀代の製鉄炉8基と鍛冶炉)、山ノ内U遺跡(9世紀代の製鉄炉2基と鍛冶炉・木炭窯)、沢田U遺跡(8世紀代の製鉄炉1基と鍛冶炉)、後山T遺跡(11〜12世紀の製鉄工房跡7棟、製鉄・鍛冶炉30基、炭窯13基など)、湾台U・V遺跡など8つの古代製鉄遺跡が発掘されている。

岩手県文化振興事業団の佐々木清文氏も「北上山地の古代製鉄」(資源・素材‘96秋季大会、資料)で、「岩手県内では、9世紀以降に北上川流域で製鉄が行われる以前に沿岸部で製鉄が行われ、しかも10世紀あるいはそれ以降まで製鉄が行われている。しかも沿岸部では、8世紀以降の集落遺跡の数が急に多くなり、弥生時代以降の遺跡の少なさが不思議なくらいである。(中略)

 沿岸地方は、北上山地南部の砂金の産出地と共に早くから律令政府との結びつきがあったようである。中央との交渉を通じて伝わってきた製鉄技術は、はたして政府の援助を伴っていたかどうかは疑わしい。炉の形態が小型化していることや送風装置が異なることから、地方の有力者が中心になって見よう見まねのような状態から製鉄を行ったと考えるのが自然である」と述べている(なお「送風装置が異なる」というのは、上段テラスの鞴が非シーソー式であることをさしている)。

 そして1999年以降現在に至っては、宮古市八木沢の島田U遺跡の発見がある。ここでは10世紀の製鉄・精錬・鍛冶までの一貫生産が行われたことが判明した。住居址150棟、工房跡80棟前後も発掘され、古代屈指の大規模製鉄集落であることが明らかになっている。こうして8世紀から始まった三陸地方の独自の製鉄・鍛冶は、12世紀まで連続して営まれていたことが明らかになりつつある。

 農業生産力は低いと見られるこの地域で、なぜこのように独自の鉄生産が発達したのであろうか。樋口氏は「主に対北方交易との関わりから説明が可能なのではないか」(前記「古代閉伊地方」)で述べているが、確かに渡

島は製鉄が行われた様子がないので、彼の地の物産、たとえばヒグマの皮や、オットセイ、ラッコ、アザラシなどの海獣類の皮、あるいは錫製品などとの交易を目的にしたことも考えられる。

しかし果たしてそれだけか。少なくとも8〜9世紀の製鉄は、迫りくる律令国家の攻撃を前にして、日高見国(蝦夷国)の存亡をかけたえみし軍の武器の調達のためだった、ということは考えられないだろうか。房の沢遺跡古墳群から出土した、大量の蕨手刀などの刀などを考えると、アテルイたち北上川流域えみし軍の武器供給地として閉伊地方があった、という考えを私は捨て切れないのである。

10世紀以降の製鉄も、安倍氏や平泉藤原氏の武器供給地の役割を果たしていたと考えたい。

ハ.馬
「陸奥国は古代より馬産の地として知られ、10世紀後半から『陸奥交易馬』『陸奥貢馬』の制度も登場する。しかし交易馬の利益をめぐって、国司だけでなく『権貴之家、富豪之民』が蝦夷産の馬を競って求めるため値段が高騰し、兵馬の確保が困難になったとして、弘仁6年(815)・貞観3年(861)には禁制の対象となっている(日本後紀・三代実録)。また源平合戦の名馬『磨墨』『池月』は三戸産・七戸産といわれ、『吾妻鏡』文治5年9月17日条によると、藤原基衡は南都仏師『運慶』に『糠部駿馬五十疋』その他を3年間送り届けたとある。この糠部郡が馬産の中心地域であった。」(『地名大系』)

この糠部郡は岩手県北部馬淵川流域から下北半島を含む青森県東部であり、古代の都母・弐薩体地域であり、閉伊地方北部も入る可能性がある。

 ところでこの東北の馬産はいつごろまで遡ることができるのだろうか。これはいまだに 解決をみていない。一般には馬は4世紀半ば以降に朝鮮半島から西日本にもたらされ、それが東国・東北へ広がったとされる。東北では5世紀後半とされる前方後円の角塚古墳から馬形埴土が発見されているので、その被葬者は乗馬の習慣を持っていたと考えられる。しかし角塚古墳は何らかの事情で一時的に胆沢へ進出した倭人集団のものと理解されている。また角塚古墳と関係があるのではないかとされる、5世紀の中半入(なかはんにゅう)遺跡からは馬の歯が発見されているが、この馬も倭人がもたらしたものとされている。

 しかし天平5年(733)には「出羽国進上の馬5匹、北陸道を通る」、翌年には「陸奥国進上の馬4匹が東海道を通る」などと「正倉院文書」にあり、8世紀にはすでに東北の馬産は西日本より優れた状況になっていたことが伺える。

 果たして馬は西日本からもたらされて、いつの頃からか東北にはいり、やがてえみし達は「弓馬の戦闘は夷Gの(いりょう)の生習にして、平民の十も、其の一に敵するに能わず」(『続日本後紀』承和4年2月18日条)といわれるような、騎馬の先進地となったと理解してよいのであろうか。

岩手県立博物館の『北の馬文化』(2000年)に、三浦謙一氏は「馬が日本に入ってきた経路については南方と北方から二度に分かれて入ってきたとする林田説があったが、その後、血液蛋白の多座位電気永動法を導入して北方から一波説を唱える野澤説が支持を得つつある」。また同書では高橋信雄氏が、「(東北地方の馬文化の)背景には、蝦夷と北方世界との接触も考慮する必要があるが、東北地方北部の風土が、草原の広がりなど馬飼いに適していたことが重要な要素と考えられる」とも指摘している。筆者は「野澤説」については不案内であるが、北方説は理解できるような気がする。新野直吉博士も北方説を提唱している(『みちのく古代 蝦夷の世界』山川出版社、1991年刊)。

 『扶桑略記』養老2年(718)8月14日条に、「出羽並びに渡島蝦夷87人来たりて、馬千疋を貢す。則ち位録を授く」とある。この記事に関連して、大友幸男氏は「北海道には馬産の歴史がなく、アイヌ語にも牛馬に関した用語はありません」と述べ、したがって「渡島」は北海道ではあり得ず、下北半島であるという説を展開している(『江釣子古墳群の謎』<なお本書では『扶桑略記』の記事の年代を和銅2年と記しているが、これは誤り>)。

しかしこの記事の馬1000匹はあまりにも現実離れした数で(後の貢馬数もせいぜい数匹から10匹程度である)、信頼性に欠けるとされている(新野直吉『みちのく古代 蝦夷の歴史』、樋口知志「渡島のエミシ」『古代蝦夷の世界と交流』所載など)。

ともあれ閉伊地方でも古代から馬文化があったことは、房ノ沢古墳群(奈良時代)の一角から四基の馬の墓が並んで発見され、馬具類も多数発見されていることでわかる。閉伊のみならず、北東北の馬文化のルーツを解くことは、えみし文化を探る上でも極めて重要だと考える。

ニ.琥珀
琥珀は縄文時代から宝飾品として珍重されているが、その多くは久慈地方を中心とした三陸沿岸の産物とされている。

熊谷常正「ヤマセの里の古代文化」(『歴史地名大系・歴史地名通信 28』所収)によると、残念ながら今のところ古墳時代の琥珀遺跡は発見されていないが、8世紀代になると、久慈市中長内(なかおさない)遺跡のように、56棟の竪穴住居跡のうち、6割にあたる33棟の住居から、琥珀の原石・破片・加工途中と考えられる資料が出土する。なかには、1000点を超える琥珀片を持つ住居もあった。またその約1キロ南東の平沢T遺跡からも16棟のうち12棟の住居から琥珀片が出土した。

熊谷氏は、「これらの琥珀はそのほとんどが細片もしくは原石で、加工痕を持つものがあるものの、製品はほとんど出土していない。また出土場所は住居跡が大半で、墓坑などから出土した例は少なく、採掘あるいは採集された琥珀が、これらの集落のなかで消費されたとは考えられない状況を示している。したがって、どこかに運びだされたとみるのが妥当である。(中略)
佐々木清文氏によれば、日本海側の遺跡からは、こうした(琥珀関連の出土品のある)遺跡はほとんど発見されないという。一方、北上川中流域の古墳や集落では出土が確認されている。このことから、北上川中流域との交流は確実で、想像を逞しくするなら三陸海岸沿いのルートの存在も想定できよう」と述べている。

琥珀もまた閉伊のえみしの重要な交易品であったことがわかる。

 

6 閉伊地方の考古学の成果から
  (別紙 資料参照)

 

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7 伝承・伝説

イ.黒森神社(『地名辞書』より)
「山口の黒森神社を、俗説、垂仁天皇の王子(又、推古帝の弟とも)是津親王の墓といふとぞ、妄誕甚し、
  南部系譜首註云、黒森棟札、
応永十一年申三月、再営、大檀那、沙弥禅高、俗名南部大膳大夫源守行、当郷主、山口館、小笠原肥後守安信、別当按察坊道安、
   又云、慶安三年、閉伊郡山口村黒森、草創は十三代守行公也、今度建立。
  盛風記云、政行公御世、応安三(庚戌)年閉伊郡黒森と云所に、観音堂御建立也、黒森明神は、推古帝御宇建立、天皇の御弟親王、御勘気にて、宮古浦へ配流也、然る処、入水なされ、御死骸不見、鶏を舟にのせ尋るに、黒森にて時を立るに因て相尋、終に見出し、其処磯鶏村と云ひ、右の鶏を放ち候へば、一夜の内千羽と成り、千鶏(せんとり)村と申す。○今按、奥羽にて、黒森神といふは、羽黒(出羽)の神と同く、羽黒森の上略ならん、所々にこの祠あり。」

ロ. 大槌・小鎚
しおはまやすみ・松橋暉男著『遠野上郷大槌町物語』(あるちざん刊)より
「小鎚川の川下より上流(かみ)に向かいて、左の山を葡萄森という。土地の人これをブンダ森と呼び、鵜ノ住居村との境いとなす。この山裾に、大和高取より移り住みし鍛冶屋あり。いつの頃よりか、毎夜この家の仕事場を窺い見る鬼の現われ、やがて屋の柱を揺するなどの狼藉を働く。鍛冶屋ついに怒り、手に持ちし大槌・小鎚にてその鬼を叩きしという。
鬼は頭を打ち割られ、大いなる声を発して跳び上がり、そのはずみにて屋根を突き抜け、山奥目指して逃げ行きぬ。鬼は遁走の徒次も小鎚川中流の蕨打直にて川前の一軒の家に打ち当たり、その家を壊し、山向こうの橋野の方へ去れり。
鍛冶屋は手負いにせる鬼の行方突きとめんと、かつまた鬼の生きながらえしならば後にわが家に仕返しに来ることあるを懼(おそ)れ、止(とど)めをささんとせしなり、弓箭を携えて山に入る。されど鬼の行方ついに分明ならず。後に橋野の人の伝えしは、橋野の山奥、笛吹峠に近き山中、片羽山といえる山の麓にて、鬼の仰向(あおの)きになりて死せるを見たりと。ために、この鬼の死せる地を誰言うとなくアオノキの地というようになれり。今日の青ノ木なり。
さる程に鍛冶屋は、その後、家業に精出さんと思い立ちしも、その手の大槌・小鎚を持つ度び、打ち殺せし鬼の思い出されて気色悪し。ついに鍛冶を廃業せんと鬼を打ちし大槌・小鎚を家の前を流るる川中に打ち捨てり。鉄(かね)にてつくりし小鎚はその川底に沈み、木にてつくれる大槌はその川面に浮き、流れて出でしが、後ふたたび潮により岸へ戻され、一つ北の川筋の河口へ漂い着けりという。これより土地の人、誰言うとなく小鎚の沈みし川を小鎚川、大槌の漂い着ける川を大槌川とよび慣わすようになれりとぞ。」

 『地名大辞典』より
 「大ケ口の櫓沢遺跡からは鉄滓(ノロ)、製鉄のフィゴ場跡、鉄片、刀子様のもの、土管が発見され、奈良期から平安初期の製鉄が証明されている。地名はアイヌ語の「オオツシ・ウツ・ペツ」(川尻にいつもトメをかける川)の「オオツシ」に大槌と当て字したといわれる。また城代が置かれた元和3年から大槌代官所が置かれた寛永9年までは大土と記された。大槌と隣りの小鎚の文字は木偏と金偏のちがいがあるが、大槌古城物語によると、村境の紛争があり、寛文年間に大槌代官所が仲裁して村境を決定し、その際に文字も大槌は木偏に、小鎚は金偏に改めたものとされている。」

小鎚神社
 「白見山と新山付近は古くから製鉄の場であったとされ、俗称金クソ平といわれた。金クソ(鉄滓)が露出し広範囲にわたって製鉄が行われたことを物語る。大同年間頃、土地の開拓者芳形某を新山明神平に祀ったのが起源といわれる小鎚神社は、村民の信仰を集め、天長年間に一ノ渡に、そして寛永6年に現在地の上町に移された。小鎚神社の遷座は従来の大槌町の文化や生活の発展が山間地から海岸部へ移行したことを示すものと考えられる。また、製鉄に関する伝説も多い。大同2年銘がある鍛冶絵巻によっても製鉄業の盛んだったことが想定される。さらに、俗称鬼打ちの屋号で呼ばれる東梅氏宅には言い伝えがあり、」(以下『遠野上郷大槌町物語』と同じ伝説が紹介されている)。
 なお小鎚神社は、天長6年慈覚大師が海辺の人々の信仰心の薄いのを憂えて、閉伊七明神の1つとして建立したものとも伝えられている。


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