小鎚神社


小鎚神社の宮司さん から頂いた資料
「小鎚神社と発祥の地を訪ねて」 大槌町文化財保護審議会 蛇口 直吉さんの
“いわて学びらんど資料”から。
1.鉄と小鎚神社
町の市街地から西の方角に望む山なみは、北上高地の支脈山地に属し、なかでも白見山(1172m)は当町と遠野・川井の分水嶺となって聳え立つ高山のひとつに数えられる。
その山麓には金糞平と呼ばれる面白い名の製鉄遺跡がある。金糞とは砂鉄から鉄を作り出す時にできる鉄の滓(鉄滓)のことで、遺跡にはたくさんの鉄滓が散在し、当時ここで鉄を生産していたことが容易に窺われる場所となっている。
また、その遺跡の中央には樹齢およそ300年の山桜(町指定の天然記念物)が、春になるとみごとな花を咲かせ、訪れる人々の心を和ませてくれる。
この金糞平から大方南の方角で、ちょうど新山牧場の入口あたりに明神平(標高660m)と呼ばれる広い平場がある。
伝承ではこの明神平が小鎚神社の発祥の地であるとされており、その由来は大同の頃(906〜809)土地の開拓者「芳形某」を明神平に祀ったのが、この神社の起源とされる。現在では小高い盛り土に小鎚大明神の碑が建立され、付近には夥しい量の鉄滓が散在し、そばを流れる川底にも鉄滓が見うけられるなど、やはりこの神社と鉄との深い結びつきというものを感ぜずにはいられない。
一方、鉄生産における鍛冶ということでの伝承については、当地を最初に切り開いた人々が芳形を名のる一族で、明神平の森の奥、小鎚川上流での鉄づくりを行っていた彼らが、小鎚明神を最初に祀ったのだとされる言い伝えが残されている。いわば、小鎚神社は鍛冶(鉄に関わる)に関係する神ということが推察され、また、大槌・小鎚の地名の起こりが「鬼打ち鍛冶」の伝説※こ由来することもとても興味深い事柄のひとつである。
※ 小鎚地区の曽根に東梅家がある。この家は先祖が鍛冶を業としていた頃、毎晩鬼が
家の中を荒らすので、ある晩待ち伏せをしてとうとう鬼を叩きだした。東梅家では
その時鬼を叩いた槌を川に捨てたところ、小さな金の鎚は小鎚川に沈み、大きな木
槌は流れて太槌川河口で打ち上げられたことから大槌・小鎚の地名が生まれたとい
う伝説。
さて、本題とは少し話が逸れてしまうが、鉄ということの関係から若干触れておきたいことがある。それは先述した同じ小鎚地区の曽根に小林家というお宅がある。この家には代々「大同二酉歳年号の鍛冶絵巻」が伝えられ、現存する製鉄絵巻では「日本最古」の絵巻と評されている。規格は長さ4m・幅14cmのもので、製鉄から鍛冶、鍬、刃、鋸など、諸道具の製造過程が克明に描かれ、わが国の製鉄技術史を知る上で貴重な史料のひとつとされている。なお、この巻末には大治元年(1126)小林喜肋十八歳と記され、巻頭の大同とは280年の差があるが、これには諸説があり、慶長14年に書かれたという説などもある。
しかしながら、史料としての又は文化財としての価値はとても重要で、昭和68年には町の文化財にも指定されている。
2.小鎚神社と慈覚大師
小鎚神社の起源を伝える「縁起」の一つに、もともと明神平にあった小鎚明神を「一の渡」の部落に移し、遷座させた人物が「慈覚大師」(第3代天台座主)であると記す史料が残されている。その史料の一つ、御領分社堂(南部家所蔵)では天長六年(829)慈覚大師が廻国の折り、海辺の衆生神仏の信仰がない為、閉伊七社の明神を建立したと伝え、その一社が小鎚大明神と記され、また奥々風土記にも同様のことが記されている。なお、この史料を裏付けるような破損した「小鎚祠」と刻まれた扁額(明治の頃にはその扁額に天長六年の銘が記され、その年号が最初の遷座の場所が一の渡と伝えられていた)が小鎚川沿いの臼沢地区から発見され、一説には閉伊頼基が死去の際に殉死した七将の一人、太田嶋源吾忠速を祀った一社、松山明神が後の小鎚神社とする史料なども残されている。
3.小鎚大明神、現在地に遷座
小銭神社が「一の渡」から次に遷座したところは、町内の「古明神」と呼ばれる場所である。ただしそれが何時の時代に移されてきたのか、この間の来歴は不明であるが、結局、この古明神の地から寛永六年(1629)9月19日に遷座したのが、現在の「城内の小鎚神社」ということになる。戦前は例大祭をこの遷座した日と定め、近郷近在から人々が集いその日を祝ったのである。


やはり 左手のここにも、ひっそりと「山神」さま・・・
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