北上川を上った仏教

えみし学会会員 佐久間祥子

さんざん遊んだ後に待っていた夏休みの宿題。ひょいと手を伸ばしたテ−マは、私にとって249Kgの荷を背負い、花巻から福島まで自転車を漕いで行くようなものでした。迂闊軽率オッチョコチョイ身の程知らずとはいえ、その重きに一歩も歩めずではあまりにも情けない。荷を軽くして進もうではないかと。
岩手県のほぼ4分の3を縦断する北上川は、岩手町に始まり宮城県北上町の追波湾に流れ出るまで249Kmあります。
伊達政宗が伊達宗直に改修工事を命じて船運路を開いた(慶長から元和年間)が人為的に造られた蛇行部と、その下流の直線部で水深が一定に保つことが出来ず、船行には役に立たなかったようです。さらに改修がなされ、他河川(迫川、江合川等)を利用して4年で竣工しており、石巻港に導かれ、迫川、江合川の全流域を経済圏に組み入れ江戸時代を通じて栄えたということです。
しかし、この工事では江合川の合流域に小さいものではあるけれど(長さ200m幅100m)、狭さく部を造ったために上流部一帯が遊水地と化した。石巻を水害から守るということのために上流部が犠牲にされた。治水というのであればむしろ川を切り離すのが一般的手法あるというが、此の場合は船運体系の確立を前提とした水害防御策とみるべき。と大熊孝の「洪水と水害の河川史」に書いてあります。
そしてその水浸しになったあたりは大正時代初期の地形図でさえも5000ヘクタ−ルの荒蕪地が広がっていたそうです。1町歩の田圃が5000枚花巻市の面積が38.5ヘクタ−ル。後年現在のル−トに今更新もないだろうというので、津山町柳津から石巻への幹流を旧北上川としたということです。
さて、その北上川をいつ誰が仏教を携えて上ったのか?私のイメ−ジがどこまでフラッシュバック出来るか船旅に出てみました。乗船する前に二つの荷物を置いて行きます、一つは船に関すること一切合財、もう一つは1000年以降の寺は調べない(例外あり)こと。
今は昔ですから出港地は竹水門(タケノミナト=石巻)、ゆらゆらと船を出し桃生の柵をくぐり抜け、河伯日高見神社に川が暴れないようにと祈りつつ、岩手県までの50Km余りを体力維持と不安重圧から逃れるためにCH3COOH の水溶液を服用して横になりました。
いよいよ寄港地右手花泉左手藤沢。川上から川下に向かって右岸左岸がル−ル、しかし川上に向かうので右側が左岸で左側が右岸となると…。日頃右と左が混乱し易い私は此の際脳みそをかばって、地図と同じに北に向かって右手が東ということにいたします。
お寺の話でした、花泉では3寺あって開基は円仁(2)、坂上田村麻呂です。藤沢町では見当たりません。 ゆらゆらと一関に向かいますその前に、右手の川崎村カンザキと発音、砂鉄川と千厩川が流れ込むこの町は水運盛んなところです。陸奥国司鎮守府将軍大野朝臣東人が「鍾乳洞(布佐窟)に石蔵坊、岩ケイ坊という常人 とは違った人達が小さな庵を作って付近を徘徊していた。この人達のために社堂を造り擁護した」が年の経つうちに何処にか立ち去った。と「いわてのお寺さん」の最明寺の項に書いてあります。
又、県最古(建長8年1256年)の刻印のある供養碑があります。これも石塔婆というのでしょうか。石塔婆といえば、寺がなくて通り過ぎた藤沢町の黄海(キノミ)地区に百余基もあり県内にある石塔婆(板碑)900から1000基のうち約半数が花泉藤沢にあるそうです。北上川の河口からず−っと宮城県河南、河北、桃生、登米などに多数あるということですが、この項研究者にゆずります。ここでちょっと陸にあがってみましょうか。
室根村に足を延ばすと室根神社があります。本宮は前出の大野東人が紀州熊野権現より勧請したとのことです。地名にもなったムロネ(牟ロ峯)は紀州牟ロ郡に由来するといいます。
川に戻って左手の港はキタカミガワ メ!がさんざん暴れまわった一関。ここも円仁、田村麻呂の4寺。
いよいよ誰でも知ってる平泉。中尊寺毛越寺は他にゆずって、円珍が造った西光寺を見学します。田村麻呂が悪路王等の鎮魂のため建てた、達谷の窟にある毘沙門堂の管理寺ということです。
最澄(伝教大師)、空海(弘法大師)、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)は平安仏教の大スタ−達です。平安貴族たちが仏教に帰依し、加持祈祷に血道をあげ怨霊調伏に躍起となったのは、元はと言えばこの大スタ−達が唐留学から持ち帰った教義知識仏具様式等からだったのでした。しかし、仏教だけの影響とも言い切れず、秘密仏教(密教)の一つのかたちである加持祈祷と古来日本の素地、赤不浄(月経)黒不浄(死)のけがれ観念とが結び付いて、怨霊思想につながったのでした。
人々は、不安が解消してもらえると知った時から不安が生まれ、祟りから逃れられると教えられた時から怨霊が歩きまわるのだと。見える人には見え、見えない人には見えないということをウソでもデタラメでもなく、仏教では空(クウ)というのだそうです。平安貴族が怨霊調伏に神経を擦り減らしていたのは、権力闘争と保身のために自ら作り出したものだとは気付かなかったのです。
その仏教が国中に伝播される。円仁、円珍等によって。
年表を見ると円珍が生まれたのが813年、78才まで生きて諡を智証大師。西光寺が建てられたのが807年……。やはり歴史は?で始まるンだ。
気を取り直して、円珍は真言宗本寺金光明四天王教王護国寺秘密伝法院つまり京都の東寺の長者空海の甥だという。この寺の名前にある金光明とは、日本に最初に伝わった経典が金光明経なのでしょうか?
もっと古い人が建てた寺がこの上流にあります。729年行基菩薩開基薬師寺いいえ今は黒石寺です。798年のえみし征伐の戦火で焼かれ807年(大同2)田村麻呂が再建し849年慈覚大師復興862年薬師如来座像造立。
厳冬2月アテルイの首を奪い合うという言い伝えもある蘇民祭の最終日は水沢の寺。川東の江刺には808年(大同3)創建といわれる智福毘沙門堂。11世紀の作といわれるトバツ毘沙門さまが収蔵庫におわします。
さて日高見川の大港日高見市。ここは今期ゼミナ−ルの会場で研究者も目白押しなのでにわか勉強で滅多なことは出来ません。さっさと通り過ぎましょう。
毘沙門堂、極楽寺、如意輪寺、染黒寺、正覚院、万蔵寺。
そして花巻市は30ケ寺のうち3寺。ここも田村麻呂、慈覚大師、修行僧。
八沢(矢沢)と云うところに大同二年といえば807年という、キ−ワ−ドで紙面を跋扈している此の年田村麻呂の兜に付けてあった一寸八分6p程の金の薬師如来像をご本尊に武運長久無病息災を祈願し建てたのが家来杉山右京さん。下って文化15年(1804)、杉山丹後藤原道春が神道祀官となって八沢神社とし、さらに昭和29年胡四王神社に改名した。と、現宮司の杉山家47代御当主杉山昌之さんに伺いました。此の山一帯を胡四王山といい、南斜面中腹には昭和32年に江上波夫によって発掘された先住民の住居跡があります。胡四王について私は知りませんが、ツング−ス系のコシ族という研究者もいるそうです。
私が育った所は水量もたっぷりで子供の頃はプ−ルなどなく川で泳いだものです。又厳冬期川上からザイ(といったような気がするけれど、氷の塊が集まったもの)が流れて来て、ついには川の全面に氷が張って向こう岸まで歩いて行けるようになるのです。とても危ないけれど、行ってみたくなったものです。ここ石鳥谷には川沿いに3寺、蘇民祭の光勝寺は円仁(他一寺)田村麻呂。
最初に船に積まなかったものの中で、例外というのが光林寺。フィ−ルドワ−クで回るかもしれませんが聖塚に関係のあるところです。
聖塚の主、河野通信の次男河野太郎通重の嫡子通次が開基である。つまり、時宗開祖一遍上人のおじいさんが聖塚の通信さんで、孫の通次君がいとこの一遍さんに弟子入りしてジュンドウと名を改め光林寺を建てた。何故石鳥谷かというと、稗貫の寺林城のお殿様が通次君のお父上通重さんと言うわけです。
斯波、志波、志和、紫波、いずれもシワ。稗貫と盛岡の間を占める郡。
「むがす あったズモナ(昔あったそうだ)
田植えの忙がすズギ(田植えの忙しいとき)
田掻きのサセトリ(佐久間わかりません タンボの水と土を掻き混ぜるのではないかと思う)
に ぐんぐんドかせんデルわらすあったド(グングン働いている子供があったンだってサ)
どごの わらす だが 誰も すらねド(何処の子供か誰も知らないンだって)
すごど 終わって そ−っと あどつけでみだっけ 御堂の ながサ へってったド (仕事が終わってソ−ッと後を付けて行って見ると御堂の中へ入って行ったって)
そごは むがす 慈覚大師様が聖徳太子の御像を彫ってみんなのごと まもってくれるよヌ (皆のことを守ってくれるように)
御堂をつぐってくれだンだド それがら ますます サセトリの太子様とゆって(言って)
みんないっしょけんめ おがんだドサ ドンドハレ。(にわか流語りべ祥婆)
ここは田村麻呂の末孫。坂の上家。降って1580年代に開山された願円寺の住職さまと坂の上家のご当主がある時、奇しくも同じ時同じ夢をみて太子堂を願円寺におまつりすることになった、というお話しを願円寺のご住職さまに伺いました。因に坂の上家は屋号として現在に至るそうです。

シワでもう一つ。田村麻呂でもなく円仁でもない寺。信者の真心で成り立ち、ヤオヨロズを超える九万八千神に88000仏を分け隔てなく祀ったという大法院。
毒蛇を食う孔雀を神格化し孔雀明王を本尊として、その神呪(陀羅尼)を唱えると病気災難を除き、息災延命を得る力があるという孔雀王呪経を学びとった役行者神変大菩薩がこの寺の開祖。又この人、空も飛んだというから何でもかなえてもらえそうです。
そろそろ県都盛岡に入ります。中津川雫石川と北上川が市内を流れてますが46ケ寺のうちの永福寺。ここも例外になりますが田村麻呂が戦勝国土安穏祈願として八戸に造り下って南部氏の祈願所となったが三戸、二戸と居城を移すに伴い寺も移さた。1597年(慶長2)二十七代利直の時岩手郡不来方に築城を許されるとこの地に建てられた。つまり1000年前の寺は盛岡には無いのです。
ついでですがこの寺の42世清珊法印と二八代重信公との連歌から
幾春も華の恵みの露やこれ (重信)
宝の珠の盛る岡山 (清珊)
盛岡の地名になつたそうです。

水量も少なくなりいよいよ源流が近くなって来たようです。
大きな杉の木の根本からこんこんとわき出る泉。そして此の地御堂。
北上山天台宗新通宝寺正覚院通称御堂観音。こここそまぎれもない日高見川の源泉でありました。しかし、ここも賊徒平定祈願のために田村麻呂によって建てられた御堂でした。又、泉にまつわる話にも前九年の役が出て来ます。源頼義が日照りで憔悴した人馬のため、弓をとり岩に刺したところ、水が迸り出たので弓はずの泉と呼ばれている。
はたして日高見川は征服されたのか。

岩から飛び散った水滴が大河となり敵を呑み味方を運び命をつなぐ水となり涸れもせず流れて海へ。

参考資料;大熊孝著「洪水と治水の河川史」ひろさちや著「仏教の歴史」
テレビ岩手編「いわてのお寺さん」岩手日報社編「いわて歴史探訪」
山川出版 岩手県高等学校教育研究会社会部会日本史部会編
「岩手県の歴史散歩」
新人物往来社「歴史読本」吉川弘文館「標準日本史年表」
新潮社「新潮日本古典集成」倉本四郎「妖怪の肖像」
花巻地方振興局土木課藤島道博さん
岩手町社会教育課田中 淳さん 桃生町社会教育課高橋とよみさん

西 暦 開 基 現寺名 元 名 備 考

807
835
835~47
田村麻呂
円仁
円仁
1宝泉寺
2医王寺 高倉寺
3養寿寺
伝記による
縁起書
由緒書

717~24 大野東人 4最明寺 峯寿庵 往古磐井郡花布佐石蔵山最明寺
略縁記

802
850
850
887
田村麻呂
円仁
円仁
円仁法孫※
5長昌寺 長勝寺
6長泉寺 竜谷庵
7観福寺 不動院
8永泉寺
古老の言
天正以前の沿革詳らかではない
寺院台帳 ※慈静和尚

807
850
850
850
円珍
円仁
円仁
円仁※
9西光寺
10中尊寺
11毛越寺
12満福寺
寺伝(古老によって語り継がれたもの
を筆にした)
※僧覚厳建立

845~50
850
円仁 13松山寺
14雲際寺 梅際寺
下胆沢風土記
胆沢郡誌
前沢 838 15霊桃寺 北長谷漆寺 安永風土記

820
729
850
密教修行僧
行基菩薩
円仁
6法泉寺
17黒石寺 薬師寺
18千養寺
胎内像造記のある薬師如来座像


891 19観音寺 慈覚大師が彫った観音像を川から拾
い創建と観音寺由緒にあり

923~30
889~97
閑心法印※ 20安楽寺
21大光寺
※菅原道真の臣
本寺補厳寺の古記録により推察

794
801
850
円仁
賢証阿闍梨
円仁
22真行寺
3勝軍寺
24観音寺
年代深遠廃滅推移不詳

807
850
850
852
855
857
円仁※
円仁
円仁
円仁
円仁
円仁
25正覚寺 将軍寺の一坊
26毘沙門堂
27万蔵寺
28染黒寺
29如極楽寺
30如意輪寺 極楽寺の一坊
※ 807以前は田村麻呂
木造毘沙門天立像木造二天王(国重文
1313年の板碑
極楽寺跡県史跡
如意輪観音(県重文)

807
807
860
田村麻呂
田村麻呂
修行僧運了
31将軍寺
32清水寺
3自性院
日本三清水の一つ


729~48
805
836
円仁
田村麻呂
円仁
34廣済寺
35長谷寺
36光勝寺
行基作と云われる釈迦像
蘇民祭

834~48
834
700頃
円仁
伝法子法宥阿
37太子堂(願円寺内)

39大法院
円仁作聖徳太子像
称徳天皇勅願と云われる
修験宗
39大法院
岩手 807 了慶 40正覚院 田村麻呂戦勝祈願千手観音

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