宮 野 英 夫
古代みちのく史に関心を抱くようになってから、気にかかることが一つありました。侵略の軍を進める大和朝廷と、それを迎え討つ蝦夷の戦士たちの戦いに、日高見川はどのような役割を果たしたか、という疑問です。
大軍を前線に送り込み、補給路を確保するためには、彼我ともに日高見川を掌握する必要があったのは当然です。
事実、仁徳55年紀には北関東の豪族、上毛野君田道が伊寺水門で敗死したとの記述があります。史実としての真偽や、地名の考証は別として、伊寺水門が戦場となったことは陸奥国でも<記紀>の時代から、水運の拠点が戦略の要衝だったことを物語っています。
大陸や半島との頻繁な交流、阿部比羅夫の数次にわたる遠征の故事(斉明紀)が裏付けているように、当時の海運は日本海側が中心でした。
太平洋側はかなり遅れていましたが、東国経営に乗り出した大和朝廷が強力な水軍を保有していたことは明白です。問題は蝦夷と呼ばれた日高見に水軍が存在したかです。
今年の4月、三重・松阪市の宝塚古墳から外洋航海が可能とされる豪華な準構造船の船形埴輪が出土。5月には日本海に近い兵庫・出石町の遺跡から出土した木製品から、外洋を航海する古代船団を描いた線刻画が確認されました。
マスコミも大きく取り上げましたからご記憶の方も多いでしょう。蝦夷と呼ばれた人達は、日高見川を<母なる川>としてきました。水軍とは呼べないまでも、大和に対抗できるだけの造船技術と操船の能力を持っていたことは疑う余地がありません。
過日、一関市の狐禅寺から石巻河口まで、北上川を船で下って眼前に桃生城跡を仰ぎ、遠く伊冶城跡を望む機会を得ました。
往時、この地で繰り広げられた大和と蝦夷との攻防は、見た目に華々しい地上の騎馬戦だけでなく、補給路の確保をめぐる熾烈な“水の戦い”もあった筈です。
その実体験を基に日高見川の制水権をめぐる攻防について幾つかの仮説を試みたのが本稿です。以下に私たちが目にすることができる僅かな文献の中から、日高見川の舟運に関わりがある部分を拾い上げて見ました。他にもまだまだあろうかと思います。先賢諸氏のご教示をお願いしたいと思います。
A ▽斉明紀4年夏4月 安倍臣(比羅夫)。船師一百八十艘を率いて蝦夷を伐つ。
齶田、醇代二郡の蝦夷は望み怖れ降ることを乞う。
(翌5年にも180艘、 6年には200艘の規模で北征)
B ▽和同元年(708) 越国より出羽建郡を乞う
C ▽和同2年(710)7月13日 越前・越中・越後・佐渡の四国をして船
百艘を征荻所に送らしむ
D ▽神亀元年(724)3月25日 陸奥国言。海道の蝦夷反し大掾従六位上佐
伯宿禰児屋麻呂を殺す。
E ▽天平宝字2年(758)10月25日 陸奥国の浮浪人を発して桃生城を
造らしめ・・・・柵戸と為す。
F ▽天平宝字4年(760)正月4日 陸奥国牡鹿郡に於いて大河に跨り峻嶺を
凌ぐ桃生柵を造って賊の肝胆を奪う。
G ▽天平宝字6年(762)12月1日 多賀城大成
神亀元年(724)築造とされる多賀城が大成。碑文に刻す。
伊冶城の築造は天平神護元年(767)10月15日
H ▽宝亀5年(774)7月25日 陸奥国言 海道の蝦夷、徒衆を発し桃生城
を侵して西郭を敗る。
I ▽宝亀7年(776)7月14日 安房、上総、下総、常陸に船50隻を
(民間から買い上げ)陸奥国に置いて不慮に備えることを命ず。
J ▽宝亀11年(780)2月2日 陸奥国言 軍士三千を発して三、四月の
雪消え雨水汎溢する時に賊地に進みて覚鰲城を固めて造るべし。即日「覚鰲城
を造りて胆沢の地を得べし」と答える。
K ▽天応元年(781)2月10日 穀10万石を相模、武蔵、安房、上総、下総、
常陸より陸奥軍所に漕送せしむ。
( 4月1日 光仁帝が桓武に譲位 )
L ▽延暦8年(789)6月6日 巣伏大会戦
<三軍謀を同じくし、力を併せて河を渡り、賊を討たんとす。是により中、後軍
より各二千人を抽出し、同じく共に凌ぎ渡る>
<まさに前軍と勢を合わせんとするに前軍は賊の為に拒否されて進みて渡るこ
とを得ず>
古佐美は10日の上表で「軍船纜を解きて舳艪百里、天兵の加える所、前に強敵なく
海浦の屈宅また人烟に非ず。山谷の巣穴ただ鬼火のみを見る」と。
M ▽延暦21年(802)1月9日 従三位坂上大宿祢田村麻呂を遣わ
して胆沢城を造らしむ
▽同年4月15日 夷大墓公阿弖利為・盤具公母礼等種類500余人を
率いて降る
仮説の1 桃生城は日高見川を制する拠点
桃生城跡は多賀城から東北へ約35`、宮城県桃生郡河北飯野から桃生町小池にかけての長者森と通称される丘陵地(標高65〜80b)とされ、その一角に日高見水神が祀られていることでも知られています。
続日本紀に登場する桃生城(柵)は天平宝字元年4月4日条の勅にある「不孝、不恭、不友、不順の者あらば宜しく陸奥国桃生、出羽国小勝に配すべし」に始まり、
Eの同2年10月25日条を経て、
Fの同4年正月4日条に続くまで計6回に達します。この間、桃生城では規模や機能の面で大小の変化を繰り返していたのでしょう。最終的にはEとFは全く別な城柵に変貌したとの推論が可能になります。
当初、桃生城は強制移住させた開拓農民(柵戸)を守るのが目的でした。しかし(ここからは推論ですが)、日高見水運の重要性が認識されるにつれて、農民と耕地を守る役割りよりも日高見川を抑える拠点としての役割りを期待されるようになりました。
移住開拓農民を守る役目が終わった背景には、道嶋一族の台頭でこの地域の治安が安定したことも大きく影響したことでしょう。今回の船下りで実感したことですが、当時の日高見川下流域の広がりは半端なものではありません。肥沃な土壌には恵まれていても、出水時の浸水域が広大過ぎて平坦地での城柵保持は困難を極めたと思われます。
同じ桃生城(柵)の名は冠していてもEとFでは全く別な城柵に変貌した。当初は平坦地に立地していたが、天平宝字4年から長者森に移って名実ともに日高見川を抑える水の拠点になった。それが、私の<仮説・その1>です。
Fに<大河に跨り>とあるのは、長者森の対岸に船溜りのよう屯所を支城として築造した可能性を示唆しています。さらには、本城と支城を船橋または筏で繋いで両者の連携を図ったことも考えられます。<賊の肝胆を奪う>とも意味が整合します。
となると、Hの宝亀5年7月の西郭が破られた、とあるのは本城の一角ではなく、西岸の船溜まりだったかも知れません。ともあれ、朝廷はこの事件をきっかけに水上戦力の増強に本腰を入れてきました。その現われがIに見る軍船50隻の増強です。
現地の最高司令官である出羽陸奥按察使・紀広純の存在も無視できません。この直後、広純は厳冬だというのに、斥候を兼ねて胆沢への出兵を敢行しました。胆沢の地名の初出とされる続日本紀・宝亀7年11月26日条です。
この時点で軍船50隻が配備されていたか、まだ計画の段階だったかは不明ですが、広純が軍船50隻を強く意識していたことは、まず間違いないでしょう。
桃生城が襲撃された直後の宝亀5年に鎮守副将軍として陸奥入りした広純は、それまで大宰府に在って新羅の国使を相手にした外交手腕を高く評価されています。水軍の戦略的価値を十分に知り尽くしていました。軍船50隻の配備計画も陰に広純の進言があったのかも知れません。
宝亀11年2月、広純は覚鰲城の造営を献策して勅許を得ました。
仮説の2 覚鰲城は第二の桃生城
宝亀11年3月22日、覚O城の造営を献策して勅許を得た紀広純は、今まさに出陣しようとした時、伊冶城で不慮の死を遂げました。覚鰲城は幻の城柵に終わり、今はその擬定地さえ定かではありません。
著名な学者を含めいろんな人がいろんな説を取り上げていますが、ここでは水沢市在住の郷土史家・遠藤昭一さんの説をご紹介したいと思います。
遠藤さんはJの<雨水汎溢する時に…>という表現に着目され、覚鰲城は日高見川が増水した時に資材や兵員の接岸・揚陸が容易になる本流沿いの高台と想定し、地元の人が蛇の鼻と呼んでいる小丘陵(胆沢郡前沢町鵜ノ木)が幻に終わった覚鰲城の建設予定地と主張しておられます。
この高台は平安時代後期、安倍頼時の子・白鳥八郎行任が居城した白鳥館跡として知られていますが、光仁朝の時代の遺構は無いようです。覚鰲城に関する史書には、計画されたという記述があるだけで完成した(或いは、使われた)という記述がないのですから、遺構を手がかりとした擬定地の詮議は意味がありません。
遺構は無くても、胆沢を攻める軍事拠点としての地の利から判断すると、この高台を覚鰲城の擬定地とする説は十分に魅力的です。東岸の束稲山から望んだ景観が、亀が水中に首を突き出した形という指摘にも説得力があります。
北上川下流工事事務所が作成した昭和22年9月、56年8月、61年8月の水害時の浸水域マップが手元にありますが、それを見ると、水に浮かぶ桃生城の長者森と蛇の鼻の地形があまりに似ていることに驚かされます。
擬定地の詮議は別として、遠藤さんが強力な水軍の存在を指摘されているのは、非常に重要なことと思います。覚鰲城は単なる地上兵力の北進だけではなく、水陸連携作戦として計画されました。完成すれば、日高見川の中流域を制し胆沢の喉元に匕首を突きつける水軍の拠点になった筈です。
覚鰲城は第二の桃生城だった。それが<仮説・その2>です。
朝廷も水軍の増強計画を推進する広純をバックアップしました。前年の宝亀10年2月23日の人事では、相模、上総、下総の国守に紀朝臣弟麻呂、紀朝臣真乙、紀朝臣豊庭と、そろって紀一族を任命しています。この三国は常陸国と並ぶ東国での水軍の先進国です。この一連の人事を偶然とは思えません。
覚鰲城の着工を見ることもなく横死した広純の後を受けて宝亀11年9月、藤原小黒麻呂が持節征東大使として登場、水軍の増強はさらに続きます。
天応元年2月10日には、<相模、上総、下総など6国の穀十万石を陸奥軍所に漕送せしむ>とありますが、軍糧の輸送に海(水)路を利用したことを明記したのは、私の知る限りではJが初めてです。按察使に昇任した小黒麻呂が常陸守を兼任したままなのも興味がひかれます。小黒麻呂も水軍に深い関心を寄せていたのかも知れません。
仮説の3 制水権なき無謀な戦い・巣伏
日高見の英雄・阿弖流為の戦史に残る巣伏の大勝利も、見方を変えると、日高見川の制水権を手にしないうちに無謀な渡河戦を挑んだ紀古佐美が敗れるべくして敗れ、阿弖流為は勝つべくして勝った、ということになります。
巣伏の戦いで、敗因の第一に挙げられるのは、西岸を進んだ前軍2千が渡河に失敗したことです。水陸の連携作戦で上流部の水路の偵察にもっと力を入れ、渡河口を確保しておれば戦局は大きく変わった筈です。
古佐美は広純に比べると、水軍に対する認識があまりにも低すぎました。古佐美の指揮下には50隻の船団がありました。何故それを活用しなかったのか。不思議と言うしかありません。水軍を活用すれば古佐美は勝ったかも知れない。<仮説・その3>です。
古佐美は5万を超える大軍を擁して一ヶ月の余、衣川に帯陣しました。衣川までは朝廷軍の勢力圏です。補給路として日高見川が利用され、50隻の船団は何の心配もなく悠々と遡上したことでしょう。
衣川の周辺にはかなりな数の船団が滞留していた筈です。しかし、古佐美には宝の持ち腐れでした。これらの船団を前線に投入する作戦など全く考えておりません。大宰府で水軍の戦略的価値を知っていた広純と、そうでない古佐美とは、そこが決定的に違いました。
戦いが終わった後、古佐美は軍団を解散すため、「軍船纜を解きて舳艪百里、天兵の加える所、前に強敵なく海浦の屈宅また人烟に非ず。山谷の巣穴ただ鬼火のみを見る」と、みせかけの勝利報告を上奏します。当然、桓武帝から「美辞麗句を並べ立てて敗北を言い逃れようとしている」と厳しく叱責されました。全ては後の祭りです。
延暦21年、田村麻呂が胆沢城を造営したことによって、日高見川の制水権は完全に大和朝廷の手に落ちました。胆沢城の監視と保護の下で、日高見川の舟運も次第に賑わいを取り戻してきたことでしょう。民生も安定してきました。
阿弖流為と母礼が帰順したのはこの年4月です。大和朝廷が桃生の長者森に、日高見川を制する拠点を築いた天平宝字4年から40年の歳月が流れていました。
21世紀を迎えようとする今、北上川を船で下って桃生城跡を望むと、嘗ては日本一の産出量を誇ったという葦の原がその昔の片鱗をとどめ、流れる水の広がりはまさに海原そのものです。古くは慶長10年(1605)の伊達藩による追波川の開削、さらには明治44年(1911)から昭和9年(1934)まで大規模な新北上川の治水工事が行われましたが、今なお往時の面影をしのぶことができます。
以下、まとめに代えて北上船下りを企画された主催者の一人である八重樫光行さんの北上川絵地図と北上川下流工事事務所作成の流域図の三葉を紹介します。
流域図に挿入した前沢町管内図は、遠藤昭一さん著の「私観 アテルイ像を求めて」から引用させていただきました。



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