塩の道
一昨年の晩秋、友人の車に乗せてもらって、いわゆるエミシ“征伐”最後の戦いとなった爾薩体(ニサッタイ)の古戦場跡を訪ねた。すなわち『日本後記』弘仁2年(811)に征夷将軍文屋綿麻呂が、ユラシべ村の降浮キミコベツルキと爾薩体村の夷イカコが「仇怨」をもって対立していたのを利用して、爾薩体(岩手県北部・青森県南東部)、弊伊(岩手県東部)のエミシを討伐した、とあるその地である。
出発は前日に泊まった岩手県九戸郡山形村川井の知人宅である。そこから久慈市と盛岡市を結ぶ国道281号で西南方、葛巻町に向かう。この道は北上高地の北部を横断する幹線であり、平庭岳から流れ出て太平洋に注ぐ久慈川の源流の一つ川井川をさかのぼって平庭峠を越える道である。
山形村は肉牛の産地として名高く、所々に牛の草を食む姿を見ることができる。明神集落を過ぎて平庭高原にかかると道の両側は真っ白になる。ここは日本一の白樺樹林帯なのである。
峠を越えると馬淵川の支流の元町川沿いに葛巻町へ下る。ここからの道は藩政期に盛岡城下と三陸海岸を結ぶ塩の道で、久慈野田街道と呼ばれた道と重なっている。
野田の塩を運んだのが南部牛で、牛方たちは半分は野宿をしながら牛を連れて七日七夜の険しい山道を歩き続けたのである。
田舎なれども南部の国は 西も東も金の山 コラサンサェー
江刈、葛巻牛方出どこ いつも春出て秋もどる コラサンサェー
道の左側は清冽な川水が流れ、右側はなだらかな丘陵が続く。遠くの連山は茶褐色に彩られて秋の深まりを思わせる。
やがて葛巻町の沢口に着く。真っ直ぐ進めば牛方たち遊興の場だったという葛巻町の中心茶屋場であるが、私たちはここで反転する形で北への道をとる。八戸市方面へ向かう国道340号である。
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村の並木道
サッ峠を越えると左側に牛の牧場が広がってくる。さらにもう一つの峠である大峠を越えるとやはり馬淵川の支流瀬月内川の源流に出る。道はここから瀬月内川沿いをゆるやかに下がるかたちになる。このあたりからは九戸村である。
一戸から九戸まで、岩手県北部から青森県南東部にかけて戸(へ)という地名が連続する(四戸のみは現行しない)。古代末期に始まる貢馬置牧の制度に起因するという説が有力である。中世以降糠部(ぬかのぶ)といわれた地域に該当し、そこはまた古代の爾薩体といわれた地域に重なるようだ。ニサッタイはアイヌ語であろう。
九戸村の熊沢あたりになって道の両側が真っ赤に彩られているのに気がついた。ナナカマドの見事な並木になっているのである。1キロぐらいは続いたであろうか。妻の神集落あたりからは今度はモミジの並木に変わる。残念ながら紅葉は過ぎていた。それがまた1キロぐらい続いて、手洗川の集落に入ると今度は家々の前に大きなカボチャがでんと置かれているではないか。名付けてカボチャロードとか。その後再び牧草地帯を見ながら仲保内に着く。ここが九戸村の中心である。
小倉岳の麓の九戸神社へ寄り道をする。二戸市の九戸城で秀吉に一族が殺戮された九戸政実を祀る神社である。
そこから更に瀬月内川沿いに北上すると、軽米町の観音林でT字路にぶつかる。そこを左にまがると軽米町と二戸市の境になる猿掛峠であり、峠を越えるともうそこは仁左平であった。
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イカコの古戦場
私たちはここで祖父・父が旧爾薩体村の村長を務め、ご自身も一戸市議を四期務められた関正夫さんのご案内を得て、仁左平に残るエミシの古戦場跡を見て回ることができた。私は仁左平と今は字こそ違え、1200年も前の爾薩体の地名が残っていることに感動していたのだが、関さんは私たちを集落をちょっと離れた小高い森へと案内して下さった。
そこは館原といい、小学校の運動場くらいの広さをもつ平坦地があり、眼下に馬淵川とその支流が流れ、一見して要害の地であることがわかる。ここがイカコ最後の決戦場の跡だというのである。そこから500メートルぐらい離れた所には、蝦夷塚といわれる塚があったが工場建設で壊された。いまその工場の傍らに「郷土の歴史を偲ぶ会」が建てた「蝦夷塚」の石碑がある。
さらに南の堀野には「アイヌ壇」という石碑があって、明治初期に国道を付け替えたときに人骨がたくさん出て、これがイカコたちの骨であろうとされ、「アイヌ壇」の碑が建てられたということであった。
私は中央では全く知られていないエミシの歴史が、ここでは1200年も語り続けられてきたことに深い感慨を禁じえなかった。それは九戸道のナナカマド・モミジ・カボチャロ一ドの優しさに通じるものであるように思われた。
〔日本ペンクラブ会員〕
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